2024/08/10 新潟日報
 食料尽き母と妹亡くす 新潟で慰霊祭 孫が初参加

 満蒙開拓団として旧満州(中国東北部)へ渡り、亡くなった県人を悼む慰霊祭が9日、新潟市中央区の護国神社で開かれた。引き揚げ時に母と妹を失った町屋エトさん(89)=新潟市秋葉区=も、孫の鈴(りん)さん(19)と一緒に手を合わせた。今春県外から県立大(新潟市東区)へ進学した鈴さんは、初めて祖母の少女期の体験を詳しく聞いて参加。「ばあちゃんがいなかったら私もいない。生きていてくれてありがとう、と言いたい」と話した。

 エトさんは新潟市秋葉区など、旧中蒲原郡出身者がつくった「西宝開拓団」の一人で、家族7人で1945年春に渡満した。新天地での生活が始まって数カ月後の8月9日、旧ソ連が対日参戦。エトさんがいた開拓団にもソ連兵が襲来した。

 開拓団本部に全員が集められ、男女に分けて座らされた。「大人に『潜っていろ』と言われて」。身を寄せて頭を抱え、恐怖に震える中、大きな声や音が響いた。銃殺された男性もいた。「父親は銃剣で殴られ、着ていた服を取られた。頭からすごく血が出ていた」。その後長く傷が癒えなかった父を思い、エトさんは顔をしかめた。

 終戦後、食料が尽きた後は、開拓団周辺の地主の施設で家族で暮らした。食べられる草を探して命をつなぐ中、母と、生まれたばかりの妹満子(ますこ)ちゃんを相次いで病気で亡くした。尿が出ず苦しむ母のうなり声と、小さくかわいかった妹の顔が今も頭に残る。「母はどんなに苦しく、日本に帰りたかったかと思う」と、エトさんは声を詰まらせる。西宝開拓団には335人が入植したが、団の資料によると80人以上が亡くなった。

 46年秋に帰国を果たした後も、11歳だったエトさんの苦難は続いた。

 近隣の農家に奉公に出され、子守や炊事をした。学校には行けなかった。はだしで砂利道を行き、田んぼとあぜの草取りをした時期もあった。「手も足もひびだらけで痛かったけど、薬も病院もなかった」。盆と正月に1泊だけ、奉公先で持たされた米を背負って家に戻った。つらい生活の中、町へ出かけると「お母さんがその辺の角から出てこないかな」と姿を探した。

 長じても大陸で眠る母と妹への思いは薄れなかった。息子や仲間と10回にわたって訪中し、かつて開拓団の神社があった場所で冥福を祈った。

 ソ連が参戦した9日に合わせて開かれている慰霊祭には毎年顔を出してきた。今年は満州開拓の歴史に関心を持つ人も集い、例年より多い13人が参列した。

 生きること、学校に行くこと、家族と暮らすこと。「弱い者はみんな諦めなければいけなかった。そんな時代があったんだよ」とエトさん。孫や次の世代に、平和の尊さを知ってほしいと願った。

 (報道部・梶井節子)
<満蒙開拓団> 1932年に日本政府が中国に建国した「満州国」に、国策として送り込まれた農業移民。10代の少年による「満蒙開拓青少年義勇軍」もあった。「満州に行けば、20町歩(約20ヘクタール)の土地がもらえる」などと宣伝され、32~45年に全国から計約32万人が参加。約8万人が栄養失調や集団自決などで犠牲になった。本県からは約1万3千人が参加し、開拓団の死者・行方不明者は約5千人に上ったとされる。

【写真】満蒙開拓団の慰霊祭に孫の鈴さん(中央)と参列した町屋エトさん(右)=9日、新潟市中央区
【図表】西宝開拓団入植地