2024/06/28 信濃毎日新聞朝刊

[市民がつなぐ] 「一人一人が育むことで、この歴史は生きる」
   川中島町公民館長・増田秀晃さん

 ゆで上がったほかほかの水ギョーザがずらりと並び、笑みが広がった。長野市篠ノ井塩崎のデイサービス施設。介護福祉士の石井彩華(さやか)さん(44)が今月上旬、自宅の隣に開いた。石井さんの夫は、帰国した元中国残留孤児の孫。施設は中国語で対応でき、25日は体験入所の帰国者2世が職員と水ギョーザを手作りした。母が残留婦人だった市内の北原華子(かなこ)さん(76)が手際よく皮に具を包むと、職員から感嘆の声が上がった。

 石井さんは結婚後の2000年に来日した。篠ノ井には元残留日本人やその家族が多く暮らすが、日本語が不自由な人も少なくない。施設近くの千曲川河川敷では、帰国者が違法に耕作し、それをユーチューバーが「不法中国人によるヤミ畑」として配信したことも昨秋から問題化した。

 「帰国者が背負っている過去に耳を傾け、地域で暮らしやすいよう支えたい」。石井さんは、誰もが自然に過ごせる場をつくることを目指す。
 

 篠ノ井を含む長野市南部や千曲市の千曲川以西の地域は、戦時下に満州(現中国東北部)へ渡り、大多数が帰らぬ人となった更級郷開拓団の地元だ。一方、世界では各地の戦乱に終わりが見えない。忘れかけた戦争の痛みへのまなざしが必要な今、足元の開拓団の記憶を見つめ直そう―との動きが広がりつつある。

 長野市南部の川中島町公民館。5月上旬、地元在住の元高社郷(こうしゃごう)開拓団員、滝沢博義さん(90)の講演会に約110人の市民が集まった。高社郷は中野市などからの開拓団で、地元の団ではない。だが主催した館長の増田秀晃(しゅうこう)さん(70)は関心の高さに驚いた。問い合わせが相次ぎ、会場は会議室から急きょ、多目的ホールに変えた。松本や木曽から足を運んだ人もいた。

 元教員で地元の寺の住職でもある増田さんは、更級郷開拓団で子どもたちを教えた塚田浅江さん(現千曲市出身)の葬儀で読経。信濃教育会の訪中団で黒竜江省方正県の日本人公墓を参った経験もある。縁を感じつつ、戦争体験者でない自分が記憶の継承に向けて何ができるのか―と問い続けてきた。更級郷開拓団の記憶は地域で埋もれていた。

 昨年夏に中野市であった高社郷開拓団の慰霊祭で殉難者の慰霊を取り仕切り、数少ない生存者の滝沢さんに出会った。同じ川中島に住むことは、その時に知った。講演を依頼することにした。

 電話すると二つ返事で快諾され、こう言われた。「残された人生の中で一日でも早く伝えたい」。戦後79年。この思いを伝える場をつくることが自分の役割だと感じた。地域の句碑などを調べている竹村昌男さん(90)も賛同。プレゼン用ソフトで滝沢さんの発表資料作りを買って出た。

 公民館の運営に携わる地元の丸田善徳さん(85)からも参加の申し出を受けた。県更級農業拓殖学校(現更級農業高校)の教師だった父が教え子を引率し、更級郷開拓団に奉仕していた。同じく地元の浜田かほるさん(74)は索倫河(そろんほ)下水内郷開拓団員だった両親の写真を手に来館。それぞれ当日、話をしてもらった。異なる視点が重なり合い、継承する記憶は厚みを増した。
 


 篠ノ井地区でも5月以降、地元から渡った更級郷、埴科郷両開拓団の講座や、帰国者支援がテーマの講演会が開かれた。戦争末期に大本営を移す地下壕(ごう)が造られた長野市松代地区では、県単独編成の黒台(こくだい)信濃村開拓団員だった三井寛さん(89)=中野市=や滝沢さんが経験を語った。

 戦後100年―。増田さんは、戦争経験者がほぼいなくなる時代を見据える。満州の記憶は、問い直すことで、より良い今や未来への支えとなる視点を示してくれる。それには、いつでも振り返れるように身近にしておきたい。経験者が伝え残してくれた真実を心に刻む。そして、そこに向き合う姿勢を養う。そんな地域の姿を次世代に残していきたいと思う。

 講演会の合間や終了後、発表者や参加者たちの小さな輪ができた。ささやかだが、確かな兆しを増田さんは見た。

   (第8部「刻む『戦後100年へ』」おわり)
   (文・井口賢太、上沼可南波、島田周、前野聡美、藤はな、写真・秂(いなづか)弘樹、米川貴啓)