2024/06/26 信濃毎日新聞朝刊

[残された記憶を訪ねる] 「語らない、語られてないことからも、想像する」
   映画「大日向村の46年」上映・蒲原みつみさん

 茂来(もらい)山を仰ぐ山あいの南佐久郡佐久穂町。8日、映画の配給や出張上映を手がける長野映研(長野市)の蒲原(かもはら)みつみさん(29)が、同僚の征矢野(そやの)裕介さん(41)と大日向(おおひなた)地区にいた。戦時下の1938(昭和13)年、村を二分して満州(現中国東北部)へ全国初の分村移民を送った旧大日向村。その証言を集めた84年撮影の記録映画「大日向村の46年」の再上映を控え、証言者や遺族を訪ねていた。

 真っ先に向かったのは、告知するチラシに写真を使わせてもらった故武者政子さんの娘で、満州から引き揚げたしづえさん(89)宅だ。しづえさんはこれまでの上映では、チラシに政子さんの写真を大きく使うことを断ってきた。「満州について口にするのもつらい」という。だが今回は許してもらえた。訪問はそのお礼とあいさつだった。この間、蒲原さんは手紙で思いを伝えてきた。

 映画では、撮影当時70歳の政子さんが証言している。「急所さえ知ってれば、腰ひも1本で子どもなんて簡単に殺せる」。引き揚げ途中、周囲で起きた自決について語った。政子さんも4人の子どもを栄養失調で失った。「他人にはできない悲しい思いもした。でも、そんな全てが自分の体験だもの」。自分に言い聞かせるように振り返る。

   ◇   ◇
 蒲原さんは、佐久穂町内で上映会を開いた2021年にこの映画に出合った。そこから満蒙(まんもう)開拓に関わってきた。下伊那郡阿智村、長野市、松本市、北佐久郡軽井沢町で上映会を重ねてきた。

 その度に証言者や遺族を訪ね、映画を撮影した後の暮らしも知ろうとしてきた。出演者たちは意を決してカメラの前に立ってくれた。その貴重な証言は、見てもらうことで生きてくる。丁寧に伝えていきたい。そのために理解の裾野を広げてきた。「本当に少しずつ、少しずつですが」
 撮影した84年は国内で中国残留日本人が注目されていた時期だった。「国策による棄民」「悲惨な体験」…。「ひとくくりにしていいのか」。監督した山本常夫さん(76)=東京=には、満州での出来事に対する社会の捉え方に疑問があった。証言してくれたごく普通の女性たちは「満州での喪失を起点に、また生きようとしていた」。制作から40年。「人間ははかなくもろいが、強くもある。そんな本質は今も変わっていない」
 蒲原さんと征矢野さんはこの日、6歳の時に引き揚げてきた畠山雅光さん(84)宅も訪ねた。玄関の呼び鈴を鳴らすと、縁側から呼ばれた。

 雅光さんは自身の手記を部屋の奥から取り出し、話し始めた。「子どもは足手まといで殺された」「みんなで集まると『死のう』という相談になる。だが、おふくろ一人になると『死なせない』ってなって、俺は助かったんだ」。雅光さんはつぶやいた。「やっぱり戦争は駄目だなあ」
 叔母の故とりさんが映画の最後に証言している。当時63歳。夫とは敗戦前後の混乱で離ればなれになり、現地で中国人と結婚。73年に単独で帰国し、町の病院に勤めた。カメラの前でとりさんは、満州を懐かしまない。引き揚げの悲惨さも語らない。元夫は軽井沢に再入植していた。「一目見られてよかった」。質問には「いたって平凡だよ」と答えをはぐらかし、最後まで多くを語らない。


 16日、長野市内のカフェ。沖縄戦犠牲者を追悼するため、「平和の礎(いしじ)」(沖縄県糸満市)に刻まれている犠牲者の名前を読み上げる催しがあった。そこに蒲原さんもいた。母親が沖縄出身。沖縄戦で住民に自決を強いた日本兵の中にも、生き延びてほしいと願う個人の感情と、組織の論理が混在していたと想像している。一人一人の立場や思いを大切にしたいと考えてきた。

 隣人がひそかに抱き続けてきた痛み―。証言の余白に、どんな伝言が込められているのか。蒲原さんは、折に触れて映画を見返している。

[映画「大日向村の46年」]
 南佐久郡大日向村の開拓団は敗戦に伴う引き揚げの途中、784人いた団員のうち389人が病気や栄養失調などで死亡した。1946(昭和21)年9月に帰国。北佐久郡軽井沢町大日向に65世帯165人が再入植し開拓した。映画は、国策で分村移民を決めるまでの経緯や背景を紹介する第1部と、二つの大日向で戦後に暮らした元開拓団員女性の証言を主に収録した第2部で構成する。7月26日~8月8日、長野市の長野相生座・ロキシーで再上映する。