2024/06/26 東京読売新聞

 ◆命落とした子への思い 2人旅で打ち明けられ 
 千葉県の田口充子さん(84)は5歳の時、満州(現中国東北部)の新京(現長春)で終戦を迎えた。昨年8月の連載「引き揚げを語る」を読み、引き揚げのことを書き置くという亡き母・絢子さんとの約束を思い出して手紙を寄せた。(山田朋代)
 1945年8月11日、田口さんは深夜、母にたたき起こされた。父の薫さんは、満州国の経済部に勤めていたが、前年に出征し不在だった。疎開の命令が出て、留守を守る妻や子を運ぶトラックが迎えに来たのだ。母と6歳の姉、3歳と0歳の2人の妹の計5人での引き揚げが始まった。

 新京駅から無蓋車(むがいしゃ)に乗り、朝鮮半島方面に向かい、降りたのは国境付近の安東(現丹東)だった。歩いて南を目指した。満蒙開拓団の引き揚げ者も加わった。病気で亡くなる人、諦めて道を引き返す人、子どもに着物を着せ、行李(こうり)に入れて道ばたに置いていく人もいた。田口さんは必死で母の服をつかんで歩いた。昼は草むらに隠れ、夜通し歩いて野宿する生活に、常にひもじさを感じていたという。

 初秋にさしかかり、朝鮮半島北部の郭山で冬を越すことに。46年3月、末妹の澄子さんが栄養失調とはしかで息を引き取った。高熱で2、3日苦しんだが、医者もおらず薬もなかった。「『涙も出なかった。そればかりか、これでもう苦しませずにすむと安心した』と母は言っていた」
 丘の中腹に凍土を何とか掘って埋葬した。ベビー服を何枚も着せ、真綿で足をくるんで土をかけた。翌日、母が見たのは、裸で横たわる遺体だった。何者かに掘り返され、身ぐるみをはがされていた。母は、「あの時は悔しくて涙がこぼれた」と生前、打ち明けた。40、50人いた集団も、郭山で半分に減っていた。

 春も終わり、一行は南下を再開し、何とか38度線を越えた。46年7月、仁川(インチョン)港から船に乗り、博多港に着いた。
 

 生前、母は引き揚げについて周囲に語ろうとしなかった。特に、厳格だった父に気を使い、澄子さんの話は家族の中で「ご法度」だった。母が持ち帰った澄子さんの爪と遺髪は、小さな木箱に入れられ、台所の食器棚の隅に置かれた。田口さんが「もっと暖かいところに移してあげようか」とたずねても、「ここがいいの」とかたくなだった。「誰もいない時に手を合わせて、語りかけていたのでしょう」。80年に父が死去した後、同じ墓にようやく澄子さんの名前を刻むことができた。

 母と2人、彼岸に墓参りをした後に、車で旅行に出かけるのが毎年の恒例に。2008年に母が90歳で他界するまで数十年続いた。車中では、母はせきを切ったように思い出話をした。4人の子を抱えて不安だったこと、澄子さんを亡くしてつらかったこと――。そして、「私が死んだら一生を書き置いてちょうだいね。戦争を知らない孫たちにも伝えたいから」と言い残した。

 母は「戦争ほどむごいことはない」と話していた。「同じ墓に入った時に、『お母さんの思いを書き残してきたよ』と報告できればいい」。田口さんは、そう静かに語る。

 ◆同じ船に…記事が縁で「再会」 79年ぶり 
 5月8日付「荒れ狂う大海原 密航船で」で登場した朝鮮半島南部からの引き揚げ者、内海一江さん(89)について「同じ密航船に乗っていた」とメールが読売新聞に寄せられた。寄せたのは内海さんと同じ川崎市内に住む菅谷信子さん(84)と大阪府内の山口弘子さん(88)の姉妹。担当係を通じ、6月上旬、川崎市内で79年ぶりの「再会」が実現した。

 姉妹の父は内海さんの父と同じ会社で働いていた。

 山口さんは涙ぐみながら内海さんと手を取り合った。全州(チョンジュ)の国民学校の色あせた通知表を広げると、「畑にサツマイモを植えて勉強どころじゃなかったわよね」などと思い出を語り合った。

 山口さんは「同じ体験をした方と会えたのは初めてでうれしい」と話し、内海さんも「荒波で命を落としていたら会えなかった。命があって本当に幸せ」と声を震わせた。

 写真=「母が必死で守ってくれなかったら私は今、ここにいない」と語る田口さん
 写真=「こうして会えてありがたい」と語る内海さん(手前左)と山口さん(同右)、菅谷さん(奥)