2024/06/22 信濃毎日新聞朝刊

[語り残す・受け止める] 「知っていることを全て語らなければ、何も後に残らない」
   元残留孤児・富井義則さん

 何十年も待っていた。話を聞きたいという人がやってきたら、何でも話そう―。

 戦時下に現下高井郡野沢温泉村出身の両親らと満州(現中国東北部)に渡り、残留孤児となった富井義則さん(86)=東京都大田区=のそんな思いが果たされたのは2年前の夏だ。中国の大連外国語大教授の崔学森(さいがくしん)さん(49)から「孤児たちの人生を記録し、多くの中国人に知ってほしいと思っています」と聞き取りの依頼を受けた。迷わず引き受けた。帰国は半世紀余り前。肩の荷が下りた気がした。

 1942(昭和17)年ごろ、4歳の時に、同郡や現中野市出身者による高社郷(こうしゃごう)開拓団で満州へ。45年8月のソ連軍侵攻で団の大多数は集団自決したが、免れた。父は召集されており、富井さんたち兄弟4人と妹、祖父、母の計7人で山中を逃げ惑った。翌朝に目を覚ますと、妹と一番下の弟が起きない。兄は目を伏せて「もう少し寝かせてあげて」と言った。全てを悟った。

 73歳で亡くなった母は最期、そのことで父からひどく責められたこと、ずっと苦しんできたことを打ち明けた。

 富井さんは中国人養父母に預けられて育った。残留孤児の妻と結婚、72年に帰国した。中国と取引のある都内の商社に勤め、定年後は中国帰国者の支援に携わってきた。

 そうした自分の半生を、富井さんは自分からは誰にも話せずにきた。ただ思いは、心の中におりのようにたまっていた。両親もほとんど口をつぐんだままこの世を去った。そこへ崔さんが現れた。言葉と感情があふれた。

 富井さんは5月下旬、崔さんと一緒に、両親らが眠る佐久市の墓を久しぶりに参った。中野市の高社郷開拓団の慰霊碑も初めて訪ねた。

 「あと何年かすれば、私たちのような孤児はいなくなる」。崔さんに思いを託す。


 下伊那郡泰阜村の島崎友美さん(39)は、祖父の故文吉(ふみよし)さんが満蒙(まんもう)開拓青少年義勇軍の一員だった。今月6日、仲間だった石原直臣さん(94)=名古屋市=が同郡根羽村の生家を墓参りに訪れ、島崎さんは会いに行った。「なぜ満州に行こうと思ったのですか」。懸命にメモを取った。

 泰阜村出身の祖父は44年、伊那谷と諏訪の少年たちで構成する三江(さんこう)義勇隊両角(もろずみ)中隊に加わり満州へ渡った。約280人いた隊員のうち、76人がハルビンの収容所などで飢えや病で亡くなった。

 石原さんは仲間の死を語った。「さっきまで話していたと思ったら、もう息を引き取っていた」。訓練所で不慣れな環境に悩んだのか、井戸に身を投げた仲間もいて「かわいそうだった」と表情を曇らせた。祖父も仲間へのそうした思いを抱えたのだろうか―。島崎さんは想像した。

 島崎さんは同郡阿智村の満蒙開拓平和記念館の運営に携わり、地元住民らの「満州移民を考える会」にも加わる。祖父から話をしっかり聞けなかったことを悔やんでいた。

 物静かな祖父だったが、酒に酔うと中国語が口を突いた。「今日はおじいちゃんの話を聞かせて」。大学生になったある冬、実家のこたつに当たりながら頼んだ。約1時間10分。レコーダーに肉声を収めた。最近になって聞き直した。時系列で出来事を整理したが、「表面的」に思えた。

 当時の教育はどうだったか、話に出てくる仲間は後にどうなったのか。次々と疑問が湧いた。まだまだ元気だった祖父。また別の機会があると思っていた。だが祖父は不慮の事故が元で2016年に亡くなった。

 卒寿を迎えた隊員仲間たちもここ数年で次々と世を去った。だから島崎さんは、石原さんが健在だと知って、居ても立ってもいられなかった。聞き取りからは、祖父からは聞けなかった満州の「生活臭」を感じることができた。

 当事者が話すためには「聞く人」や「聞く場」が要る。その役目を果たし、記憶をまた次の人に分かち合いたい。それが、足元から歴史を見つめる第一歩になると思う。

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 来年の夏、戦後80年の節目を迎える。過去と同じ過ちを選び取ることが二度とないために、満蒙開拓の記憶を絶えず振り返り、教訓を心に刻む仕組みや場は大きな意味を持つ。戦後に生まれた世代にとっては、当時を知る世代に本当に頼れなくなる時期を間もなく迎えるからだ。自分たちが主役となり、次世代につないでいかなければならない。まずは手の届く未来を意識して、今できることを考えたい。「戦後100年へ」。第8部は、記憶の継承の現場を訪ねる。