2024/06/18 信濃毎日新聞朝刊 
 「お国への思い」利用され若者を引率 父のようになるな、と警告

 戦時中に上高井郡から満州(現中国東北部)に渡った珠山(しゅざん)上高井開拓団の元団員、故今井弥吉さんの長男彰さん(89)=須坂市=は、弥吉さんの引き揚げ後、弥吉さんを非難する声を耳にした。「あんなひどい所へ連れて行って」「殺された人もいるのに、よく帰ってこられたものだ」。弥吉さんは何も言わなかった。家でも一切話さなかった。

 弥吉さんは地元の翼賛壮年団長だった。満蒙(まんもう)開拓の宣伝の戸別訪問などに力を注いだ。30代後半の時、多くの若者を率いて満州へ渡った。

 「『お国の役に立てていない』という思いが、ずっとあったのだろう」。彰さんは推し量る。弥吉さんは1歳で患った中耳炎のため左耳の聴力を失い、徴兵検査で通常の兵役には適さないとされた。

 弥吉さんに引け目を感じさせ、そうした思いさえも利用したものの正体は何か、それにどうあらがえるのか、彰さんは考えてきた。

 弥吉さんは1907(明治40)年、旧須坂町で2代続いた金物商に生まれた。3代目になろうかという頃、42(昭和17)年の企業整備令で商品の入荷が止まり、家業は立ち行かなくなった。以後、翼賛壮年団の活動に専念。20~40歳の団員は最盛期で総勢3700人。初代団長が満州に渡り、弥吉さんが後を継いだ。

 上高井開拓団に食糧増産のための「報国農場隊」を送ることになり、隊長として弥吉さんに白羽の矢が立った。45年4月、22歳以下を中心とした男女計100人が満州へ。弥吉さんは、反対する妻と、彰さんを須坂に残して単身で渡った。本土への空襲が激しくなる中、米軍による占領を見据え、大陸で「押し返す力」をつくりたいとも思った。

 だが8月9日のソ連の対日参戦で開拓団は逃避行を余儀なくされた。弥吉さんはシベリア抑留後、46年に帰郷した。

 54年になって、弥吉さんは逃避行の苦難などの「満洲追憶記」をまとめ、同じ上高井開拓団の元団員の故川浦一雄さんによる「大陸避難日記」と合わせた一冊を自費出版した。その中で、弥吉さんは心情を吐露した。

 満州へは「私達は六万郡民を代表して行った」と主張をにじませた。軍の将官や県知事にも前途への懸念を直言した一本気な姿も見える。一方、報国農場隊長などは「おだてられて分不相応な仕事」を担ったとし「おだてられたと判(わか)っていても、止(や)むに止まれぬ心もあった」と記した。

 弥吉さんは戦後、地元の信用金庫や病院で働き、地域では保護司や民生委員も引き受けた。86歳で亡くなった。


 手のひらに辛うじて収まるB6判、207ページの本。装丁には、反戦や反核を訴えた長野市出身の版画家上野誠(1909~80年)の作品を取り入れた。須坂市立博物館が昨年の8月15日の終戦記念日に、弥吉さんと川浦さんの手記を300部限定で復刊した。

 文体や紙質、大きさは初版当時と同じ。「2人の思いをそのまま次世代に伝えたい」。館長の小林宇壱(ういち)さん(62)が彰さんたち遺族に復刊を相談し、快諾を得た。

 博物館のある臥竜(がりゅう)公園。上高井開拓団の慰霊碑がひっそりと立つ。彰さんは毎日、散歩の途中に立ち寄る。時折、誰かが花を供えてくれてあって、気持ちが安らぐ。

 「大きな波に乗りたいと思うのは人の常だ。ただその原点にあるのは闇なのか、光なのか、見極めないといけない」。彰さんにとって、手記は父の後悔の記録であり、「自分のようにはなるな」と後世に伝えようとした警告だ。

   (第7部「終わりなき問い」おわり)
   (文・前野聡美、島田周、写真・秂(いなづか)弘樹、中村桂吾、北沢博臣)
[珠山上高井開拓団]
 1941(昭和16)年からの3年間で、現在の須坂市や上高井郡から東安省の珠山に300戸の移民を計画。42年から入植が本格化した。須高地域は製糸業や養蚕が盛んだったが、昭和恐慌による生糸価格暴落の影響で深刻な経済不況に陥っていた。44年に男性団員の召集が相次ぎ、45年4月に「報国農場隊」の100人を送出。合計で延べ約370人が入植した。「長野県満州開拓史 各団編」によると、終戦時は197人おり、うち86人が引き揚げ途中に死亡。10人が不明、62人が帰国した。報国農場隊は30人余が犠牲となった。