2024/06/14 信濃毎日新聞朝刊
 日本人として団を守れ―強いられた犠牲 追い打ちかけた、戦後の屈辱

 「皆さんは開拓団ということに心があって、こうやって聞いていただけるんですね」。2013年11月、開館7カ月を迎えた満蒙(まんもう)開拓平和記念館(下伊那郡阿智村)。岐阜県の黒川開拓団で満州(現中国東北部)へ渡った安江善子(よしこ)さん(当時89歳、2016年死去)は、恐縮気味に語り出した。開拓団時代の経験者を招く「語り部定期講演」に、多くの聴衆が集まった。

 黒川開拓団は敗戦後、現地住民による一斉蜂起、ソ連兵による強奪や強姦(ごうかん)に耐え、集団自決の寸前に追い込まれていた。団幹部は、団をソ連兵に守ってもらう見返りに、若い女性を差し出すと決めた。善子さんは、そこで繰り返し性暴力を受けた一人だった。

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 団幹部は、善子さんら未婚の若い女性を集めて言った。「子どもを残して戦場に行った兵隊たちの家族を守るのも、おまえたちの仕事だ。日本人として開拓団を守るのか、このまま自滅するのか、おまえたちの力にある」。未婚女性が選ばれたのは、夫が出征中の既婚女性を犠牲にはできない―との判断からだ。

 女性たちの中で最年長だった善子さん。「お嫁に行けなくなっちゃうから、やだぁ、やだぁ」と泣き出す女性たち一人一人を抱きしめ、かける言葉を探した。「お嫁さんに行けなくなったら一緒にお人形さんの店でも出そうね…」
 団では、性暴力の現場へ赴くことを「接待」と呼んだ。15人がその役目を負い、4人が性病などで亡くなった―。

 語り部定期講演で善子さんは、1時間余り話した。終えるや否や聴衆に囲まれた。手を握られ、言葉をかけられた。驚いたような、ほっとしたような、そんな満足そうな表情を、講演の場へ善子さんを誘った黒川開拓団の4代目遺族会長、藤井宏之さん(72)=岐阜県白川町=は忘れることができない。

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 善子さんは、この事実を語りたい思いを長年抱えていた。1981(昭和56)年、遺族会が訪中団を出し、善子さんも黒川開拓団があった陶頼昭(とうらいしょう)を訪ねた。帰国後に善子さんが中心となり、地元の佐久良太(さくらだ)神社に亡くなった4人を供養する観音像「乙女の碑」を安置した。同じ頃、被害に遭った女性たちと雑誌の取材に応じ、匿名で報道された。

 だが、社会の反応は薄かった。当時の遺族会は、雑誌を地元で買い占めて波紋が広がるのを抑え、黙殺した。

 善子さんの一人息子の泉さん(70)=岐阜県大垣市=は「母の本当の悔しさは、引き揚げ後に受けた屈辱にあったのだと感じている」と話す。

 女性たちには日本に帰ってから、感謝も、謝罪も、ねぎらいの言葉もなかった。「好きでやった」「減るものじゃない」とさえ言われた。

 女性たちは善子さんの家に時々集まっては、酒を飲んだ。いつも決まって泣きじゃくる女性がいたことを、泉さんは覚えている。

 戦時中は憲法上も男女同権ではなく、泉さんは「自分が当時の団幹部だったとしても、同じ選択をしたかもしれない」とも考える。その上で思いを巡らせる。語りたい女性たちの思いを半世紀以上も封じてきたのは何か。

 「恥ずべきなのは犠牲になった彼女たちではない。犠牲を強いた側でありながら、彼女たちを差別し、隠さなくてはいけないと思わせてきた男たちであり、そのような風潮を助長する社会ではないか」
 満州で性暴力を受けた女性が数多くいたと戦後に語られるが、当事者が声を上げた例はほぼない。記念館での善子さんの証言は、そうした社会の殻を破り、歴史に確かに刻み込まれた。

[黒川開拓団]
 山間部の岐阜県黒川村(現白川町)は1939(昭和14)年、同県の満州移民計画にのっとり分村計画を立案。近隣の村からも参加を募り、42年から現中国吉林省の陶頼昭へ662人が入植した。敗戦後はそのままとどまったが、現地住民から襲撃を受けた。近くに入植していた熊本県の来民(くたみ)開拓団が集団自決したとの報を受け、対応を検討。集団自決はせず、女性と引き換えにソ連将校へ警護を依頼した。食料不足や発疹チフスなどにより208人が死亡、3人が残留孤児となり、451人が帰郷した。