2024/06/14 信濃毎日新聞朝刊 

 1936(昭和11)年、満蒙開拓の国策化で本格的な移民の送出が始まり、女性たちも開拓団の一員として家族で大陸へ渡った。青少年義勇軍の訓練を終えた少年たちを含め、未婚男性の配偶者を確保するためとして、組織的な女性の送出も政策化された。「大陸の花嫁」と呼ばれた。

 「大陸の花嫁」は、「満州国」の実権を握る日本の関東軍の東宮鉄男(かねお)大尉が最初に構想し、移民男性たちに「慰労」や「慰安」を与える伴侶が必要だとした。配偶者の養成のため、日本国内への施設整備が政策化され、県は40年、東筑摩郡広丘村(現塩尻市)の桔梗ケ原に全国初の女子拓務訓練所を整備。訓練生たちは農作業の他、茶道や裁縫なども習った。満州国にも「開拓女塾(じょじゅく)」ができた。

 拓務省が42年に作った「女子拓殖指導者提要」は、満州で日本人の人口を増やし、「大和民族の純血」を保持する役割を女性に課した。

 一方で国は、満州に行けば伝統的な家制度から自由になれる―とも宣伝した。日本で最初の女性映画監督でフェミニストでもあった坂根田鶴子は43年、満州映画協会でプロパガンダ映画「開拓の花嫁」を製作。理想郷的な満州の情景の中で、夫と子どもとの核家族で男女が平等に育児や労働に当たる姿を写した。

 開拓団で多くの男性が根こそぎ召集され、敗戦後、女性たちはソ連兵や中国人、朝鮮人などから性暴力を受けた。日本人の集団を守るため、組織的に差し向けられた例も多くあった。「大和なでしこ」として「純潔」を守るべきだとの教育を受けており、性暴力を受けた女性の中には自死する人もいた。引き揚げて日本に上陸する直前、産んだ子どもと共に海へ身を投げた女性がいた―との証言もある。

 引き揚げ港では婦人向けの相談所で問診や検査が行われた。国は被害女性への配慮以上に性病の防疫を重視していたとされる。博多や佐世保などでは違法な中絶手術が行われた。両親の人種が異なる「混血児」を排除する優生保護思想が背景にあった。

 身を守るためや家族を守るため、極寒の地で生き延びるためといった理由から、中国の男性と結婚せざるを得なかった女性も多い。国は、終戦時におおむね13歳以上だった「残留婦人」は「自分の意思で中国に残った」とみなし、帰国支援は13歳未満の残留孤児に比べて遅れた。