2024/06/14 信濃毎日新聞朝刊

 鈴木則子さんら残留婦人3人が2001年に起こした国家賠償請求訴訟の原告代理人を務めた。原告は当初4人で、4人分の訴状を書いたが、1人は夫と子に反対され断念した。戦前の教育を受けた残留婦人たちにとって、「家」から自由になり、国を訴えるのは大変なことだった。

 鈴木さんは裁判を通じて「国の姿が見たかった」と言った。敗戦から今日まで国が残留婦人をどう見てきたか、実際そのことがよく分かった。残留婦人の歩んだ人生からは、性差別を始め女性特有の問題が如実に表れている。

 1953年に始まった満州からの後期引き揚げで、男性は多くが帰国したが、生き延びるため中国の農村家庭に入らざるを得なかった女性の多くは帰国できなかった。1人で帰れと言われたからだ。幼い子どもを置いていくことはできなかった。

 59年の未帰還者特別措置法公布で、日本政府は中国に残された女性たちを「国際結婚した人」とみなし「自己の意思で帰還しない者」と認定した。実際は、国際結婚という類のものでは決してない。他の家族を日本に帰すためだったり、わずかなお金で売り渡されたり。敗戦国の女性が生き延びるため、強いられた「同居」が始まりだった。

 73年から残留日本人の帰国費用を国が負担したが、配偶者は「同伴する妻(内縁を含む)」のみが対象になった。残留婦人の中国人の夫は82年まで対象にならず、帰国をあきらめる人もいた。

 国は「大陸の花嫁」募集で、家父長制の中で抑圧された女性が引かれるようイメージを作り上げた。解放されたい思いが戦争や植民地支配に利用された。逆に言えば、女性を苦しめる体制さえつくれば、逃れたい女性を戦争に組み込みやすい。今日的な示唆がある。戦争が終わるとたちまち「女の力は要らない」ということになり、ご都合主義的な女性利用でしかなかった。

 戦後憲法下の50年につくられた国籍法でも父系主義が維持され、残留日本人女性と中国人の夫の子どもは日本国籍を得られなかった。女子差別撤廃条約批准のため84年に両系主義になったが、情報が行き届かないなどで今も中国籍の帰国者2世は多い。在留権や生活保護、年金問題など、日本で生きていく上でさまざまな障壁が今も続いている。

[いしい・さよこ]
 1949年、千葉県生まれ。中国残留婦人の国家賠償請求訴訟弁護団長。残留婦人が設立したNPO法人「中国帰国者の会」の初代理事長。共著に「国に棄てられるということ」など。