2024/06/11 信濃毎日新聞朝刊 
 祖父の死が、私の人生を 豊丘、分村移民決めた若き村長と孫の劇作家 語られぬまま、落とし続ける影

 5月27日、東京都内。下伊那郡豊丘村出身の劇作家で精神科医の胡桃沢伸さん(57)の自宅で、新作の芝居の初稽古があった。役者の川口龍さん(38)=東京=が、覚えたてのせりふに息を吹き込む。「俺は名乗りを上げてみたい。ここに、この俺がいる。この俺が東京のど真ん中に―」
 脚本のタイトルは「鴨居に朝を刻む」。伸さんの祖父で、河野(かわの)村(現豊丘村)の村長を務めた胡桃沢盛(もり)(1905~46年)を主人公にした一人芝居だ。盛は、日中戦争下の1940年、35歳で村長に就いた。期待される若き指導者だった。

 43年10月、盛は満州(現中国東北部)への分村移民の送出を決めた。だが開拓団の末路は凄惨(せいさん)を極めた。敗戦翌年の7月、盛は自宅の座敷の鴨居にひもをかけ、自ら命を絶った。41歳だった。

 「開拓民を悲惨な状況に追ひ込んで申訳がない、あとの面倒が見られぬことが心残りだ、財産や家は開拓民に解放してやってくれ」(原文のまま)。本紙は盛の遺書の内容として伝えた。盛の日記は最後のページが破られている。遺書の実物は残っていない。

 伸さんの子ども時代、家で盛について語られることはなかった。「しゃべってはいけない」と言われたわけではない。沈黙が当然のことのようだった。だが祖父の死は、伸さんの人生に時折、奇妙な形をして現れた。

 小学2、3年の頃、盛の妻である祖母と2人、鴨居の下の奥座敷で並んで寝ていた。「ひぃえぇえええ」。祖母の悲鳴のようなうめき声に起こされた。翌朝、祖母に尋ねても「胸に手を当てて寝とったもんで」と答えるだけ。「うなされたら嫌だから、大人になっても胸に手を置かないで眠ろう」と思った。怖さからかその頃、パジャマを着ず普段着のまま布団に入った。

 小学生の時、「伸君のおじいちゃんは首をつって死んだんだに」と幼友達に言われたことがある。何も言い返せなかった。家の歴史を確かめるのが怖かったが、「怖い」とも言えない子どもだった。

 時代がバブル景気に差しかかる頃、伸さんは名古屋大の工学部に進学。自治寮の仲間と演劇をした。86年、大学2年の時に旧ソ連のチェルノブイリ原発事故が起きた。人間の命と暮らしを犠牲にする原発に違和感を持った。就職活動で重化学工業大手を訪ねたものの、原発や兵器産業には関わりたくなかった。

 医学部に入り直し、精神科医になる道を選んだ。自分の心がよく分からなかった。「人間の狂気に深く迫りたい」と思った。95年の阪神淡路大震災から間もない神戸で、医師の仕事を始めた。言葉にも興味を持ち、30代後半から本格的に脚本を書き始めた。

 ある時、知人から手紙が来た。「これは胡桃沢さんのおじいさんの事ではありませんか」。盛が残した約20年分の日記を、両親が飯田市歴史研究所に寄贈したと伝える新聞記事のコピーが入っていた。

 伸さんは動揺した。ちょうどその頃、書き上げた戯曲「西成日記屋物語」が評価され、上演が決まり稽古を始めていた。日雇い労働者の街がある大阪・西成。そこに流れ着いた男たちが書いた日記を死後に集め、家族に手渡し、言葉と思いを引き継ぐ―という「日記屋」の物語だった。受け継ぐべきメッセージは、自分の家にあった。

 実家に連絡を取ると、父から、飯田下伊那の住民が満州移民の記憶を聞き取ってまとめた報告集「下伊那のなかの満洲」が送られてきた。ページをめくり、さらに驚いた。

 河野村開拓団の最期は、住民同士で命を絶つ「集団死」だったと語られていた。伸さんは数年前から、沖縄戦や米軍基地問題に興味を持つようになっていた。とりわけ集団死について、住民をそこへ追いやった皇民化教育の過ちをまざまざと感じていた。

 伸さんの人生は、祖父の人生の深淵(しんえん)に引き寄せられ、さまよっていた。

   ◆
 戦後79年を迎える今も、満蒙(まんもう)開拓は単なる過去の出来事ではない。心にのしかかる重荷の正体を探り、自分なりの答えを見つけようと、もがき続けている人たちがいる。なぜ祖父は開拓団を送り出したのか。なぜ父は押し流されたのか。なぜ母は最期に語ったのか―。それは、国策と戦争という大きなうねりの中で、決断を迫られた一人一人の生き方を知り、学ぼうとする試みだ。第7部は、過去に問いかけ、生きる道筋を探る姿をたどる。

[河野村開拓団]
 旧下伊那郡河野村が分村する形で1944(昭和19)年、「満州国」の首都・新京近郊へ開拓団を送り出した。村長だった胡桃沢盛は、当初は送出を迷ったが、43年、天皇に尽くす「皇国農村」に指定されたことを機に分村推進に踏み出した。長野県満州開拓史によると、敗戦時、24世帯95人が在籍。45年8月、女性や子どもを中心に73人が集団死に追い込まれた。生き残った久保田諫(いさむ)さん(1930~2023年)が唯一帰国し、晩年まで体験を語り続けた。