2024/06/05 信濃毎日新聞朝刊 
 地道な孤児の研究を通じ日中つなぐ 悲劇繰り返さぬ道と信じて

 中国の大連外国語大教授の崔学森(さいがくしん)さん(49)は2年前の再来日後、中国残留孤児の研究を志したものの、帰国者に電話で聞き取りを依頼すると立て続けに断られた。新型コロナウイルス対策を理由にされたが、中国人による聞き取りに慣れないため敬遠されている―と感じた。

 そんな崔さんの頼みに初めて応じた元孤児が、人づてに紹介された東京都内の富井義則さん(86)だった。両親が現下高井郡野沢温泉村出身で、同郡や現中野市から満州(現中国東北部)へ渡った高社郷(こうしゃごう)開拓団で幼少期を送った。集団自決を免れて中国人養父母に育てられ、1972(昭和47)年に帰国した。

 「知っていることは全部話しましょう」。残留孤児研究は日本人研究者が取り組んでおり、まだやる余地があるものか自信が持てなかった崔さんだが、富井さんの言葉で腹を決めた。元孤児たちの平均年齢が80歳を超える中、「時間との闘い」に心血を注ぐ。

 「日本は東北部を永続的に占領する野心を実現するため、移民侵略を続けた」。大連市にある愛国教育施設の展示の説明だ。旧日本陸軍病院の建設に動員された現地の人たちが多数犠牲になり、遺体を埋めた「万人坑(まんにんこう)」だった場所にある。ハルビン市の侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館にも大勢の人が訪れていた。中国人にとって満州は、日本の支配への抵抗や過酷な労働を強いられた記憶と共にある。

 そうした中、崔さんは訴える。「侵略戦争の後遺症は続くでしょう。だが、研究の意義は恨みを明記することでなく、乗り越えた先の相互理解にあります」。都内で5月19日、中国帰国者2世らのNPO法人の総会で講演し、約40人を前に力を込めた。

 「日本がひどいことをしたという感想で終わっていいのでしょうか」。会場の一般参加の日本人女性が、満蒙開拓について学ぶ意義を自問するように尋ねた。崔さんは「日中関係は長い歴史の中から見ると、不愉快な時期はごく限られています」と応じた。72年の日中国交正常化直後、友好ムードが高まった時の気持ちに学ぶよう投げかけた。

 一方、帰国者や2世たちには、日中をつなぐ「友好交流の大使」の役割がもっと果たせるはずだと考える。

 延べ200人への聞き取りから、元残留孤児たちは「日本人だが、文化的には全くの中国人だ」との認識に至った。家族の団結を重んじ、帰国した残留婦人の母が病に倒れたため中国での職をなげうって来日した2世にも出会った。だがそうした価値観を、日本の社会は十分理解してこなかった。中国の文化を伝えたり、中国人観光客を受け入れる日本の旅行業や商業に携わったりすることで、帰国者や2世らが日中双方に連なる個性を発揮できると見込む。

 5月31日、崔さんは元残留孤児で90年代に帰国した原田満雄さん(80)=松本市=に電話した。原田さんは中国で2005年に出版された「日本遺孤調査研究」に、帰国後は息子が中華料理店を営み、自立した生活を送っていると手記を寄せていた。帰国者が中国への恩を忘れていないことや、日本社会の応援もあって今の暮らしができていることを中国の人に伝えたかった―。崔さんにそう話し、聞き取りを受ける約束をした。

 崔さんは7月上旬に帰国するが、今後も頻繁に日本を訪れ、研究を続ける。戦後80年の来年、日本で一般社団法人「中国帰国者研究所」を設立する構想を温める。帰国者たちの証言集や家族史を編む他、残留婦人らが残した手記を中国語に訳し、日本語が不自由な2世も読めるようにしたい。日中両国での研究や情報発信の拠点とする考えだ。

 それが、戦争による孤児を世界でこれ以上生み出さないために、研究者として社会責任を果たすことだと信じる。