2024/06/04 信濃毎日新聞朝刊 
 残留孤児を見つめる中国人研究者 助けた背景、捉え直す試みも

 「日本の残留孤児が帰国した後、生活状況がどうなっているかに興味があります」。4月29日、中国遼寧省錦州市にある渤海大。記者は王禹浪(おううりょう)・特聘教授(68)の紹介で、歴史研究者らとの座談会に招かれた。中国と外国の関係史が専門の若手、杜常生(とじょうせい)さんの質問に対し、日本では残留孤児の歴史が徐々に埋もれ、中国語を話す日本人が地域に暮らしている背景が忘れられつつあると答えた。言葉の壁による就職の難しさも話した。

 「残留孤児が帰国後、自分は中国人なのか、日本人なのか、その立場をどう認識しているのでしょうか」。そんな質問も出た。

 翌30日は吉林省長春市で長春師範大の大学院生たちと意見交換した。「日本軍や『偽満州国』政府から圧迫され、住民が苦しい生活を送った歴史は、やはり忘れてはならない」。高校で歴史の教員経験がある薛萌(せつほう)さん(28)から、日本の教科書の記載内容を問われた。終戦後に残留した日本の医療者や技術者が「中国社会に貢献した」ことに興味があるとの声もあった。

 「この機会に中日の歴史問題への認識を深め、中日友好の将来に貢献したい。互いに研究を続けましょう」。渤海大歴史文化学院の温栄剛(おんえいごう)院長からは、そう呼びかけを受けた。大きなテーマに、重い宿題を課せられた気がした。

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 「残留孤児のことを、中国でも東北部以外の人はあまり知らない。日中友好を進め、戦争を防ぐため、もっと広く知らせたい」。大連外国語大(遼寧省大連市)教授の崔学森(さいがくしん)さん(49)=中日関係史=は5月22日、飯田市川路の池田肇さん(88)を訪ね、思いを伝えた。大八浪(ターパラン)泰阜村開拓団員として満州に渡り、孤児となった池田さんに聞き取りをした。

 満州へ渡った経緯、逃避行中に幼い弟を失ったこと、寒さに耐えた収容所生活、中国人養父との関係、1974(昭和49)年に帰国後の生活…。池田さんは地域の中学生らに体験を伝えてきたが、中国人研究者の聞き取りを受けるのは初めてだった。

 「中国人が助けてくれなければ多くの命が失われた。次世代のためにこの歴史を伝えてほしい」。今夏、改めて聞き取りに協力すると約束した。

 中国では残留孤児や養父母を巡り「中国人は被害者だが、広い心で孤児を助けた」との認識があり、国民の「誇り」として語られることが多い。

 崔さんが注目するのは、養父母に実子がいない場合が多かった点だ。子どもがいないのは自身の親への不孝とされる、家業を続けたい、農業の働き手がほしい、老後が不安…。そうした現実的な問題もあったとみる。このため恵まれない家庭環境に入った孤児は少なからずいたと考える。

 また中国東北部には、北京より南方からの流民も多かった。崔さんは、そうした人たちが孤児を引き取り、仲間内の子どものいない人に譲ることで、新たな土地で共同体を築いていった―と考察。これまでその視点からの研究は見当たらないという。養父母や孤児の一面だけを強調するのではなく「その存在の全体像を捉えたい」と考える。

 98年に交換留学生として初来日。九州大大学院などで学んだ。2022年に再来日し、現在は亜細亜大(東京)の訪問研究員。これまでに聞き取りをした元残留孤児らは延べ200人に上る。

 ただ、聞き取りは初めから順調に引き受けてもらえたわけではなかった。

[満州を巡る戦後の中国側の動き]
 中国東北部では戦後間もなくから1960年代半ばにかけて、抗日活動家を「烈士」として慰霊・顕彰する施設が各地にできた。60~70年代には、日本側の建設現場などで過酷な労働による犠牲者の遺体を遺棄した「万人坑(まんにんこう)」の発掘や記念館建設が進んだ。一方、日本から渡った開拓団員や残留日本人は中国人民と同様、日本の軍国主義が生んだ犠牲者と見なされた。開拓団員が多く死亡した黒竜江省方正県で地元政府は63年、周恩来首相(当時)の承認を得て国内唯一の「日本人公墓」を建てた。残留孤児は72年の国交正常化後の肉親捜しで中国でも注目され「日本遺孤」と呼ばれた。