2024/06/02 信濃毎日新聞朝刊 
 生存する養父母や現地訪問者はわずか 発信したいが時代は移ろう

 タキシードとウエディングドレスに身を包んで並ぶ若い男女と、帽子をかぶった幼い男の子。中国黒竜江省ハルビン市の「侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館」の一角に並んでいるはずの写真に写っている。同市日本遺孤養父母連誼(ぎ)会の秘書長を務める石金楷(せききんかい)さん(66)=東京都=の父の石尚金さん、母の劉淑琴さんと、義兄の小林義明さん(いずれも故人)だ。義明さんの中国名は石金峰さん。

 両親は、残留孤児だった義兄を養父母として育てた。陳列館の資料によると、現在は入れない養父母の展示室で、その経緯を紹介している。

 石金楷さんによると、両親はハルビン市で暮らし、父は靴の修理が生業。終戦の翌1946(昭和21)年春、避難民収容所の桃山小学校にいる日本人に再三誘われて赴くと、ベッドに2歳の男の子がいた。腸チフスにかかり、高熱で苦しんでいた。その場で引き取ると決めた。病院に連れて行き、半年後に治癒。幼名を「来福」と名付けた。この子がわが家に幸せを運んできた―との思いを込めた。

 裕福な家庭ではなかった。義兄が6歳で感染症にかかった際、母は結婚時のドレスを売って治療費に充てた。義兄は周りの子どもたちに「日本の鬼」とからかわれた。両親は「うちの子どもだ」とかばった。義兄は小学校卒業後、工場で働いた。父は76年に亡くなる際、義兄に抱かれて最期を迎えたという。

 そうした姿を間近で見てきただけに、石さんは中国人養父母が「日中友好につながる特別な存在だ」と考える。「中国人の心の優しさ、戦争の悲惨さを社会に発信できる」
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 連誼会は80年代、前身のグループが孤児の肉親捜しを開始。日本政府や民間団体による孤児捜しや孤児の認定、帰国支援に協力してきた。石さんは2001年から本格的に携わり、14年に残留孤児の妻と日本へ移住した。

 ただ時の流れとともに、取り巻く状況は変化している。

 ハルビン市内で把握している養父母は、下伊那郡阿智村で経験を語ったこともある養母の李淑蘭さんが22年に亡くなり、いなくなった。一方、日本政府に残留孤児として認定を求めている人は現在、市内に7人。結果を待つ間に亡くなった人は何人もいる。2月に見送った1人は、引き取られた幼少期に肉親が養父母に宛てた書面を復元し、認定を目指して手続き中だった。

 「当事者が亡くなったら、もうどうしようもない」。石さんは無念そうに語る。一方で、そうした人たちの記録を基にメッセージをどう発信していくか、思いを巡らせる。

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 80年代から元開拓団員や満蒙(まんもう)開拓青少年義勇軍の元隊員を中国東北部の各地に案内してきた現地ガイドの男性。記者は5月2日、ハルビン市内の案内を受けた。戦後80年を目前に、開拓地を訪れる関係者は少なくなっている。男性は「一つの時代が終わるのですね」とつぶやいた。

 地元出身で、88年に国営旅行社に入社以来、案内した客の8割は日本人という。06年に仲間と独立。全国最多の満州移民を送り出した長野県からの来訪者を案内することも多く、痕跡の見当たらない開拓団跡地も頭に入っている。

 ある年、義勇軍の元隊員から「今年が最後。体が駄目だからもう来られない」と告げられた。文通も途切れた。新型コロナウイルス下で予定した来訪がかなわないまま、体が弱って断念した人もいた。

 自身も間もなく定年を迎える。一般の観光ではないため、他のガイドは開拓団跡地の案内をやりたがらないという。「私が退職したら誰も案内できなくなるでしょう」
[中国人養父母]
 1945(昭和20)年8月の旧ソ連の対日参戦に伴う開拓団員らの逃避行の末、両親と死別したり、手放されたりした日本人孤児を中国人が引き取って育てた。実子のいない人や、貧しい暮らしを送る人も多かった。72年の日中国交正常化後に孤児の帰国が始まると、残された養父母は困窮する場合もあり、生活を支援する団体ができたり、日本の篤志家の支援で養父母のための住まいが造られたりした。開拓団員らの公墓のある黒竜江省方正県には、孤児らが「中国人養父母公墓」を整備した。瀋陽の九・一八歴史博物館には養父母と孤児の像が立つ。