2024/05/27 信濃毎日新聞

 日記や大量の手紙、木曽の生家で発見 教練の日々、望郷の思い… 識者「第一級の資料」

 太平洋戦争開戦直前の1941(昭和16)年6月、「満蒙(まんもう)開拓青少年義勇軍」の一員として、15歳で満州(現中国東北部)に渡った少年の日記が木曽郡木曽町開田高原の生家に残っていたことが26日、分かった。手紙など大量の関連史資料や、渡満した姉の日記の写しも見つかった。満州での庶民の記録は敗戦前後の混乱で多くが失われ、現地で書かれた日記が見つかることは極めてまれ。専門家は「第一級の資料群」とし、満州移民への新たな視点を示す可能性があると期待している。【関連記事21面に】
 少年は1926(大正15)年生まれの森田節夫さん。国内での訓練を経て、現在の黒竜江省にあった寧安(ねいあん)訓練所に入った。見つかった日記は4冊で、41(昭和16)年元日付から42年6月28日付まで。1年目の日記帳はB6判ほどのサイズ。やや角張った字で、ページがびっしりと埋まっている日もあれば白紙の日もある。42年1月からは、薄いノート3冊に書かれていた。

 日記では、「勇(ゆう)やく我がなつかし家を出発す」と国内の訓練所に向かう心境を記した他、「秋季大運動会(を)礼拝台の前で行った」「午前二時より三小隊と警備交対(交代)」などと寧安訓練所での日常を伝える。軍事や農業の教練に明け暮れる様子や、食事への不満や故郷を思う記述もある。

 節夫さんは、訓練所で病気になり、42年7月下旬、16歳で亡くなった。所属した中隊が、節夫さんの死後に、日記などの遺品を生家に送り返したとみられる。

 けがで敗戦前に帰国した義勇軍の少年1人の日記を翻刻したことがある飯田市歴史研究所調査研究員の原英章(ひであき)さん(75)=下伊那郡喬木村=は、「戦後に隊員が記した手記は多く残るが、(現地での)日記はほとんど残っていない。リアルタイムに生活を記録した日記の史料価値は高い」と強調する。

 今回の発見は、元高校教諭の楯(たて)英雄さん(88)=木曽郡上松町出身、塩尻市在住=が、木曽地域から送り出された義勇軍について調べる中で節夫さんの遺族に声をかけていたことがきっかけ。節夫さんのおい、森田秀雄さん(76)=開田高原=が今年1月、楯さんの元へ日記を持ち込んだ。

 節夫さんの父岩吉さん(故人)が「節夫遺品」と書いた缶の箱に入れて残しており、中隊の仲間からの両親宛の手紙、教科書、東条英機名義の弔辞など百数十点の史資料も一緒に入っていた。楯さんは「第一級の資料がよくぞ残っていた」と驚く。

 秀雄さんは自身の母親で、節夫さんの姉の夏子さん(1924~87年)の日記も発見。夏子さんは節夫さんが亡くなった後の44年、農作業を担う「勤労奉仕隊」として満州に渡り、同年中に帰国した。戦後の68年に44年4~11月の日記を書き写していた。

 筑波大の伊藤純郎名誉教授(66)=伊那市出身、日本近現代史=は、開拓団員の配偶者となることも期待されて送出された女性たちの実態はまだ分からないことが多い―と指摘。節夫さんの日記と併せて「義勇軍から見た世界、奉仕隊の女性から見た世界が交差し、新たな満州移民観や実態が見えてくる可能性がある」と話している。(稲玉千瑛)