2024/05/25 毎日新聞 

 4月に義姉が102歳で亡くなった。生前に一度だけ、私にこんな話をした。

 終戦時、旧満州(現中国東北部)のソ連との国境近くに、夫と生まれたばかりの女の子と3人で住んでいた。そこへ突然のソ連兵の襲撃。夫は連れていかれた。義姉は乳飲み子を抱いて着の身着のまま、ほかの日本人家族と一緒に必死で逃げた。

 走って走って……もう限界だった。この子だけは助かってほしい、と義姉は子どもを中国人女性に託したという。「必ず迎えに来ますから」
 互いの連絡先を交換し、義姉はわが子の証しにと、そのとき着せていたちりめんの産着の端を引きちぎってきた。今も持っているけれど、音信不通となり手がかりがないという。

 NHKで中国残留孤児の情報が放送されていたころは、もしや、と欠かさず見ていたが、放送もなくなって……と寂しそうに話していた。故郷の宮崎・延岡で、わが子と会える日をひたすら待ち続けたが、念願はかなわなかった。

 義姉の長寿を支えたのはひとえに、残してきた子どもに会えるまでは、という一念ではなかったか。そうつくづく思う。