2024/05/24 信濃毎日新聞
 「デジ庫」を生かして皆さんと共有します 来月4日公開

 連載中の企画「鍬(くわ)を握る 満蒙(まんもう)開拓からの問い」の取材班は、信濃毎日新聞社が6月4日からウェブ上で公開する県民参加型デジタルアーカイブ(資料館)「信州メモリー~みんなでつくるデジ庫(くら)」を通じ、満州(現中国東北部)で撮った写真を募集しています。敗戦に伴う混乱で、戦時下の満州の暮らしや風景が分かる写真は失われたものも多く、大変貴重です。ぜひお寄せください。

 満州には1932(昭和7)年に日本の傀儡(かいらい)国家「満州国」が樹立され、開拓団の他、さまざまな仕事などで日本から多くの人が移り住みました。45(昭和20)年8月9日のソ連の対日参戦などで、それぞれ逃避行や避難生活を余儀なくされました。

 デジ庫の仕組みを生かして、その頃の記録と記憶を読者の皆さんと共有し、次代につなげていきたいと考えます。写真や証言は開拓団に限らず、満州の様子が分かるものを幅広くお待ちしています。

 投稿ページには「満州・満蒙開拓関連ですか?」との設問があり、「はい」を選ぶと、関連する写真として自動的に分類されます。専用のコーナーでは、昭和10年代を中心とする四つの時期ごとに、投稿いただいた写真やエピソードに出合えます。

[満鉄勤務の父が撮影 栗林美千枝さん 坂城町・81歳]
<この機会にこそ、と連絡>
 1943(昭和18)年に満州で生まれ、敗戦後に家族で引き揚げた栗林美千枝さん(81)=埴科郡坂城町=は、南満州鉄道(満鉄)に勤めていた父の故若林彦一さんが当時撮影した写真を「鍬を握る」取材班に寄せた。家族だんらんの様子の他、炭鉱の選炭場、ハルビン神社での記念写真などがある。傘寿を迎え「私が生きている間に何か役に立てられないか」と預け先を探していたという。写真はデジ庫に収録した。

 満州で栗林さんは父母、姉、兄と5人暮らし。写真は、彦一さんが更級郡篠ノ井町(現長野市)の両親(栗林さんの祖父母)らに送ったものなどとみられ、実家を処分した際も手元に残した。栗林さんに満州時代の記憶はないが、家族で過ごした幼いころの話を聞いていたため「どうしても捨て難かった」という。

 彦一さんがカメラを持っており、自分で現像していた。満鉄が経営した撫順(ぶじゅん)炭鉱、老頭溝(ろうとうこう)炭鉱の選炭場といった彦一さんの仕事にも関わる場所の他、裏山を家族で訪ねてくつろぐ様子や、姉の五十嵐秀代さん(96)=東京都杉並区=が一時帰国した際に通った篠ノ井高等女学校(現篠ノ井高校)の校舎の写真もある。

 日本の関東軍が新京(現長春)に設けた司令部、キリスト教会の建物なども。満州には当時、ロシア革命を逃れた白系ロシア人たちがいた。

 母延(のぶ)さんは46年7月、引き揚げを2カ月後に控えて病死した。その直前に新京で撮影された証明写真もあり、栗林さんは大切にしてきた。帰国直後に埼玉県で撮った家族写真は、3歳だった自身の細い足や、40代の彦一さんのやせこけた?が、敗戦後の避難生活の過酷さを物語っている。

 本紙に満州関連の記事が載るたびに問い合わせようと思ったが、踏ん切りがつかずにいたという。「鍬を握る」を読んで「この機会を逃したら後はない」と意を決し、写真について取材班に連絡したという。「歴史の理解に役立ててほしい」と話している。

<更級郷開拓団>
 戦時下に更級郡信級(のぶしな)村(現長野市)から34歳で満州へ渡った大叔父(祖父の弟)から届いた写真です。現在の長野市南部や千曲市の千曲川以西にまたがる地域の出身者でつくる更級郷開拓団の一員で、妻子と暮らしました。開拓団本部前で撮った集合写真やトラクターによる農地の開墾、入植地に建てた更級神社での祭典などがあり、多くの団員家族が集まって演芸大会を楽しむ様子もあります。一家は対日参戦したソ連軍の銃撃などで全滅しました。一時帰国時に持参した写真が残されていました。

   (宮本博夫さん・65歳・長野市)
<千曲郷から引き揚げ>
 満州では、南佐久から多く渡った千曲郷開拓団で過ごしました。引き揚げて8年後、昭和29年5月16日に、小海近辺にいる同じ開拓団の人たちで撮った懐かしい写真です。手前の子どもたちは、引き揚げてきてから生まれました。

 逃避行では千曲郷も多くの人が亡くなりました。仲間と一緒に引き揚げてきて、苦しい思いをしました。ほとんどいなくなり、この中に写っている大人では、生きているのは私1人だけになってしまいました。後ろの木の前、着物を着ているのが私です。結婚する前の年、病院の厨房(ちゅうぼう)に勤めていたころです。

   (佐々木好子さん・92歳・佐久穂町)
<黒台信濃村>
 1937(昭和12)年、黒台(こくだい)信濃村開拓団員だった父に2歳で呼び寄せられ、ソ連の対日参戦を経て11歳で引き揚げるまで満州で過ごしました。ソ連軍に銃殺された父や、団の国民学校前に集合した全校児童の写真があります。逃避行で多くの人が命を落としました。校庭の畑で育てたヒマ(トウゴマ)は日本軍に供給し、油に使われました。下高井郡倭(やまと)村(現中野市)出身の3家族の集合写真もあります。子どもたちの中には残留孤児となり、数十年後に帰国した人もいます。

   (三井寛さん・89歳・中野市)
<皆さんと一緒に「資料館」を>
 「デジ庫」は、ウェブ上で皆さんと一緒に発展させていくデジタルアーカイブ(資料館)です。懐かしいお祭りや地区の行事、身近な場所のかつての風景、家族や仲間たちとの記念写真…。日常の風景や風俗といった人々の営みの変遷を記録(写真・紙面)と記憶(エピソード)で未来へ伝えていきます。郵送とウェブで投稿を募集しています。

 投稿は、くらし・風俗、文化・催し、街並み・風景、山岳・スポーツ、事件事故・災害、戦争―の六つのカテゴリーに分けて登録し紹介します。今後は、信濃毎日新聞くらし面に掲載している「あの時の1枚」も収録します。皆さんと一緒にデジ庫を充実させていきますので、お手元の貴重な写真や大切な思い出をぜひお寄せください。

 デジ庫は、自分の生まれた頃や何年前など知りたい年を検索すると、1面を中心に「あの頃」の紙面や投稿された写真、エピソードに出合えます。学校や高齢者施設、文化施設などでの活用も期待しています。昨年の信濃毎日新聞創刊150年の記念事業として着手し準備してきました。

 6月4日から「digikura.com(https://digikura.com/)」のサイトで見られます。投稿ページを先行公開しています。

 詳しい内容は、7日付朝刊19面の特集ページをご覧ください。問い合わせは信濃毎日新聞文化部内「デジ庫」係(?026・236・3185、平日午前9時~午後5時)へ。

<手元の写真、お寄せください>
 「デジ庫(くら)」は、皆さんの手元に残る写真を思い出と共に募集します。郵便か投稿ページ=QR=で受け付けます。写真に、▽住所▽氏名▽年齢▽電話番号▽公開用のペンネーム(本名も可)▽タイトル(30字以内)▽エピソード(300字以内)を添えてください。どこで何年ごろの撮影かも盛り込んでください。近年の写真でも構いません。

 郵送先は、〒380―8546 長野市南県町657 信濃毎日新聞文化部内「デジ庫」係へ。写真は返却します。投稿ページからは書式に沿って写真(データ)などを入力してください。

 写真とエピソードは、紙面やホームページなどに活用させていただく場合があります。公開できないこともありますのでご了承ください。投稿ページに掲載した利用規約をお読みください。