読売新聞2024/05/30

 満蒙開拓団は国策として満州(現中国東北部)に送り込まれた農業移民。かつて、豊かな暮らしを夢見て渡ったが、終戦前後の混乱で苦難に見舞われた。家族で開拓団に参加した川崎市の田中則子さん(83)は、年齢を重ねるごとに、引き揚げの時の母親の苦しみを感じ、心を痛める。昨年8月の連載「引き揚げを語る」を読み、当時の体験を寄せた。(山田朋代)

母子3人 懸命な道のり…食べ物も水もなく歩き続け 夜は畑に身を潜め

母が写る古い家族写真を見ながら、夫(左)に引き揚げについて語る田中さん(川崎市内で)
 父母が旧ソ連との国境に近い満州北部の旧竜江省に入植し、終戦時は4歳だった。

 母子3人の引き揚げで脳裏に焼き付いているのが、船から見える大海原だ。「おなかがすいた」と泣くと、母のマサノさんが悲しそうな顔で抱え、海に足をつけられた。引き揚げ後、母は「海に抱かれて死にたいと何度も考えたが、父親に子どもを渡さずには死ねないと思った」と打ち明けた。
 父の茂さんは福島県の農家の三男として生まれた。昭和恐慌によって農業、養蚕業がふるわず、地元の自治体などが、農家の次男、三男の移民を推進した。母は田中さんを妊娠しており、祖父が強く反対したが、父は「自分の農地を持ち、豊かな暮らしができるはず」と決意したという。
 「広い土地を耕すことから始めていたが、身重の母には開墾はたやすいものではなかった」。1941年、田中さんは現地で生まれ、翌年に弟も生まれた。まもなく開拓団に召集令状が届き始め、43年秋、父も戦地に赴くことに。
 45年8月、ソ連軍の侵攻で開拓団は大混乱に陥った。男性たちは徴兵でおらず、残っていたのは女性や子ども、高齢者ばかり。ソ連兵らに衣類や布団、家財道具の一切を奪われた。現地住民に殺される人もいた。ある時、熱病にかかった母に「のどがかわいた」と言われ、水をくみに外に出た。戻ると家にソ連兵がおり、着物をはがされた母、泣きわめく弟がいた。「何が起こったのか。母もその時のことは語ろうとしません」
 45年秋、何とか母子3人で開拓団の引き揚げに同行することができたが、満州北部からの道のりは簡単ではなかった。食べ物も水もなく、土ぼこりの道を黙々と歩き続け、夜はコウリャン畑に身を潜めた。「『腹減った、歩きたくない』と泣かれるのがつらかった」と母。貨物列車に揺られた後、やっと大きな船に乗り込んだが、毎日誰かが病気や飢えで倒れた。


 帰国後、先に復員した父とは再会できたが、農家の手伝いや行商で生計を立てるしかなく、苦しい生活は続いた。「国策で移民を奨励していたのに戦後、ほとんど支援がなかった」
 教科書や辞書は買えず、「本当にみじめでしたね」。中学卒業後、集団就職し、夜間学校に通うなどして介護の仕事に就き、懸命に働いた。
 母は52歳の時、脳 梗塞こうそく で倒れて半身まひになり、82歳で息を引き取った。最近、心の中で母に、「そろそろ私もそっちに」と話しかける。その度に思い出すのは飢えや誰も頼ることができなかったつらさだ。「母のところに行く前に、子や孫たちの世代に戦争が何をもたらしたのか、伝えなければ」と考えている。

満蒙開拓団員 帰国後も苦難
 満州への移民は国策として推進され、日本各地から約27万人が渡った。昭和恐慌で疲弊した農村経済の立て直し策の一つで、開拓団を送り出した自治体に国から補助金が出た。現地軍隊への食糧の供出やソ連からの防衛といった軍事目的という戦争協力の面も強かった。「満洲開拓史」(満洲開拓史刊行会)によると、福島県から開拓団などとして渡ったのは1万2673人で、全国で4番目に多かった。
 満蒙開拓平和記念館(長野)事務局長の三沢亜紀さんは「移民には自分の農地を持ちたい、など様々な理由があったが、『国のために送り出すべきだ』という地域の圧力もあったはず」と推測する。
 開拓団員は戦後も苦難が続いた。渡る時に家などを処分しており、帰国後に住む場所や仕事に困る人が多かった。
 同館は4月、各地の開拓団の名称や入植地域、在籍人数などのデータをまとめた一覧表をウェブサイトで公開した。三沢さんは、「最近は親や祖父母の足跡をたどりたいという戦後世代の問い合わせも多い。多くの犠牲を出した歴史に触れてほしい」と語る。