2024/05/02 信濃毎日新聞
 歴史語れる場があればこそ、前へ 問われる「受け止める力」

 花冷えとなった4月22日の札幌市。市内の朴仁哲(ぼくじんてつ)さん(50)は久しぶりに母校の北海道大を訪ね、大学院時代の恩師、小田博志教授(57)=人類学=と昼食を囲んだ。「アイヌ民族の歴史を知ったことは、私の問題意識の形成に大きく関わりました」。朴さんが朝鮮から満州(現中国東北部)への移民を研究テーマに据えたのは、この土地からの必然の問い掛けでもあった。

 朴さんは大学院時代、小田さんの講義を受け、明治政府が始めた開拓事業によってアイヌ民族の文化も土地も奪われていった歴史を知った。北大前身の札幌農学校は日本で最初の植民学の講義を開講。台湾、南洋群島、樺太、満州へと「帝国日本」が統治・支配を拡大していく起点となった。アイヌ民族はその実験台だった―と小田さんは言う。創氏改名を最初に強要されたのはアイヌ民族だった。

 朴さんは朝鮮人満州移民1世の男性から、話を聞かせてもらおうとした途端に「植民地主義者を育てた大学で学ぶ者が朝鮮人の移民研究をできるのか」と言われ、きっぱり断られたことがある。聞き取りで最も頻繁にやりとりした李洛東(リナクトン)さん(仮名、1927年生まれ、中国吉林省梅河口市)も「朝鮮人はみんな『恨(ハン)』を抱えている」と言った。

 「私はいま、日中韓、朝鮮半島がいかにすれば仲良くできるか研究しています。お考えを聞かせてもらえますか」。歴史の重みを受け止め、乗り越えたいと考えてきた朴さんは、移民1世への聞き取りで思いを打ち明けてきた。

 家に泊まり込んで話を聞いた裵洪原(ペホンウォン)さん(仮名)は、自身を徴兵した日本を恨んでいるとした一方、戦後のシベリア抑留時、日本人と腹を割って話した経験を語った。「民衆と民衆は永遠に友好関係を結ばなければならない。結べる基盤はあると信じている」
 植民地統治による経済苦から一家で朝鮮から満州へ移った全日煥(チョンイルファン)さんは戦後、炭鉱で働いた。一緒だった日本人の一生懸命に働く姿には「学ぶべきところもある」。軍国主義に走り、他国や自国の「民衆を苦しめた」歴史をきちんと知ってほしいと訴えた。

 国や民族を超えた生き方に触れた朴さんは、一人一人の顔を思い浮かべながら、一人の人間としてこの歴史を伝える使命を感じている。「私の深層のアイデンティティーは東アジア人」との思いも深める。「中国人、日本人、韓国人と、くくれない自分が成長し続けている」
   
 4月14日、飯田下伊那地域を訪れた朴さん。父が元中国残留孤児の中学校教諭、大橋春美さん(54)=下伊那郡豊丘村=と出会い、話し込んだ。

 「長野に来ると安心して自分のことを話せる」。そう吐露した。満州移民について知る人が多いこの地域では、朝鮮にルーツがあって歴史と向き合ってきたと明かしやすい。だが在日朝鮮人への差別的な言動もある中、通常は名乗るのは負担に感じているという。それは、歴史を伝えていく上での壁にもなっている。

 大橋さんは8歳の時に一家で日本へ永住帰国した。教員となった20代前半までは、歴史を語りたくても怖かったという。10代のころ、日本社会にある中国への差別的な感情を敏感に受け取っていた。朴さんの姿に「かつての自分を見ているようだ」と思った。

 大橋さんは経験や葛藤を授業や地域の会合で語った。すると応援する声が寄せられ、勇気づけられた。「話してもいいんだと思った。聞いてくれる人がいるのがとても大切なことだった」。歴史が語られる場は、受け止める側の力によってつくられてきた。大橋さんは、朴さんへひそかにエールを送る。

   (第4部「見過ごしてきたもの」おわり)
   (文・島田周、前野聡美、写真・北沢博臣、中村桂吾、?(いなづか)弘樹)