2024/05/01 信濃毎日新聞
 優しかった朝鮮族のお手伝いさん 今思えば生きるための「親日」

 群青色の小さなボタンを手のひらにコロンと乗せた。

 渡井せいさん(85)=山梨県市川三郷町=が戦中に満州(現中国東北部)にいた頃、朝鮮族の女性に編んでもらった毛糸のワンピースに付いていた。「満州の記憶を呼び起こしてくれる大切な物」。4月16日、聞き取りに訪れた満蒙(まんもう)開拓平和記念館(下伊那郡阿智村)の事務局長、三沢亜紀さん(57)に語った。渡井さんは2022年に初めて記念館を訪れてから、三沢さんと手紙のやりとりを続けてきた。

 朝鮮との国境に近い琿春(こんしゅん)で生まれた。朝鮮族が多く住む地域だった。父の太郎さんは山梨の農家出身。飼育していた蚕が病気で全滅し、貧しさにあえいでいた時、役場で「満州国警察官募集」の張り紙を見つけて満州へ渡った。

 家には「お手伝いさん」の女性がいた。名前はパク・シャンギム。10代半ばくらい。明るい性格で、台所仕事をしながらよく歌った。「黙って仕事をしなさい」と父が叱ると「ハーイ」と返事し、またすぐに歌い出した。ワンピースを編んでくれた。シャンギムの父は哈達門(ハーターメン)という村の村長。親日家の一家だった。

 1944(昭和19)年の夏、シャンギムの家へ遊びに行った。土造りの小さな家。中は薄暗い。入ると、薄汚れたチョゴリを着た数人の女性が座り、にこりともせず一斉に渡井さんを見た。シャンギムは女性たちと夢中でおしゃべり。いつもの「オクサマ、ダンナサマ」とかしずく姿とは別人のようだった。

 豚が入ってきて、野菜くずをあさっている。注がれる視線もつらく、渡井さんはとうとう泣き出した。優しい言葉をかける代わりに、シャンギムは言い放った。「帰りたくなったんでしょう。来年は入学なのに、だらしがないね」

 まもなく渡井さんは延吉へ転居し、国民学校へ入学した。ある日の下校時、一人の男の子が言った。「橋の上に朝鮮人が大勢つながれている。見に行ってみようよ」。抗日勢力の活動が活発な地域だった。後ろ手につながれていたのは捕まった「抗日分子」。中には少年もいたという。

 警察官の父は、抗日勢力を取り締まる側だった。

 渡井さんは戦後、満州に関する本を数多く読み、現地も訪ねた。当時を思い返す。シャンギムやその家族たちは「親日家」だったのか。貧しさの中で子どもたちを何とか育てたいと思ったら「侵略者」である日本人にすり寄るしかなかったのではないか―。

 父のことも思う。「全く平凡でお人よしで、国の方針になど一寸の批判も持たない明治の人間だった」。母からは、父が日本の関東軍からしばしば「若くて美しい娘」の「調達」を指示されたと話していた―と聞いた。父は、人としてしてはいけないことをしたのか。ため息をつきつつ考える。「その人の限界があったのではないか。いくら教育を受けていたとしても」
 敗戦の翌46年5月、父は引き揚げのことで説明会があると言われて出かけ、そのまま刑務所に連れていかれて帰らなかった。シャンギムは松本駅(松本市)近くで銭湯を営む家に下宿して女学校に通い、故郷に戻ったと聞いた。

 長野への帰途、三沢さんは「人としての限界」という渡井さんの言葉を思い返していた。そこにいる以上はソ連の脅威が目の前にあり、関東軍の支配下にあった満州。渡井さんの父は警察官として国策に従うべき存在だった。個々の内心を丸のみするような大きなうねりの中で、一人の人間としてどう振る舞えたのか。一つの問いを持ち帰った。

[朝鮮人満州移民の関係資料]
 ドキュメンタリー写真家の李光平(リグァンピョン)さんが満州へ渡った朝鮮人を20年余りにわたって訪ね、写真と聞き取りをまとめた「『満洲』に渡った朝鮮人たち 写真でたどる記憶と痕跡」(2019年)は、それぞれの人生と歴史的な背景を多角的に伝えている。学術書では金永哲(きんえいてつ)さんの「『満洲国』期における朝鮮人満洲移民政策」(12年)が帝国日本の政策の特色を詳細に分析。聞き書きを基にした戸田郁子さんのエッセー「中国朝鮮族を生きる 旧満洲の記憶」(11年)などもある。博物館では、立命館大国際平和ミュージアム(京都市)が朝鮮半島から満州へ渡った朝鮮人の歴史にも触れている。本紙もこれらを参考にした。