2024/04/30 信濃毎日新聞
 「二等国民」とされ―虚構の五族協和 日本人と中国人の板挟みに

 「五族協和」。1932(昭和7)年、現中国東北部に樹立された日本の傀儡(かいらい)国家「満州国」は、漢族、満州族、モンゴル族、朝鮮人、日本人といった満州にいる全ての民族に平等な待遇を与えると宣言した。多様な民族が共存共栄を図っていく―との理念だった。だが、朝鮮人満州移民を研究する朴仁哲(ぼくじんてつ)さん(50)=札幌市=の移民への聞き取りでは、その空虚さがさまざまに語られた。

 33年に韓国・慶尚北道(キョンサンプクト)から満州の撫順に移った蒋?柱(チャンムンジュ)さん(1914年生まれ)は、民族ごとに食料の配給が違った―と語った。日本人と朝鮮人には米やたばこ、砂糖の配給があり、漢族や満州族などの中国人には何もなかった。米とたばこは日本人と朝鮮人の間にも差があった。電車は甲乙の等席があり、中国人が甲等席に乗ると日本人に殴られた。「ほとんど毎日のように中国人が殴られている場面に出くわした」
 朝鮮人には創氏改名の強要などがあり、満州でも朝鮮を植民地とする日本の支配からは逃れられなかった。一方で朴さんは、朝鮮人は「日本人から抑圧を受けながら、より弱い立場の者を抑圧するという二重の立場に置かれていた」とみる。日本人と中国人の間で板挟みにもなっていた。

 洪福南(ホンポクナム)さん(25年生まれ)は慶尚北道から36年、日本が満州の朝鮮人を保護する名目でつくった綏化(すいか)の「安全農村」に移った。日本人が中国人農民を追い出した長屋に、同郷の8家族で入居。だが、居間も井戸の中も馬ふんだらけだった。「中国人農民は追い出されたことを恨んでそうしたのだと思う」。井戸は使えず、雪を解かして飲んだ。

 満州で「二等国民」とされた朝鮮人を、「三等」とされた中国人は日本の侵略の手先と見なした。日本人への蔑称「日本(リーベン)鬼子(グイズ)」をもじった「二(アー)鬼子(グイズ)」との呼び方もあった。

 「本当の五族協和でやっていたら、僕たちは犠牲を出さずに済んだかもしれん」。木曽郡読書村(現南木曽町)の分村開拓団の団員だった可児力一郎(かにりきいちろう)さん(1932~2023年)は生前、南木曽町から下伊那郡阿智村の満蒙開拓平和記念館に足しげく通った。来館者に話しかけては、その体験を語った。

 民族の一等、二等、三等といった序列は「もうあからさまな差別だった」。そうした中で土地や家屋を取り上げられて「黙っとるわけないでしょう」。読書分村は敗戦時、暴徒化した現地民に襲われ、大勢の女性や子どもが亡くなった。五族協和が本当に実現していれば―。晩年まで思いを抱え続けた。

 満州への分村移民を拒んだ旧大下条村(現下伊那郡阿南町)の元村長、佐々木忠綱さん(1898~1989年)は満州を視察した際、乗っていた車の日本人運転手が対向車を止め、相手の運転手を殴る場面に遭遇した。朝鮮人か中国人だった。「態度が悪い」との理由だった。日本人の「恐ろしく横暴」な姿に疑問を持って帰国した。

 2人が語った言葉が資料として記念館に残る。満州の社会では、民族と民族、人と人とが対等に生きられずにいた。その不条理さをその時、多くの日本人は疑わなかった。

[満州の朝鮮人の立場]
 戦時下の満州にいた朝鮮人は、朝鮮で同化政策を進める日本から「皇国臣民」としての立場を求められた一方、日本の関東軍や「満州国」側からは五族協和の理念の下で「満州国民」としての役割も求められ、一貫しない政策のはざまにあった。1936(昭和11)年に関東軍が作った「在満朝鮮人指導要綱」は、朝鮮人も満州国内の治安維持や国防の責務を負う―と規定。一方、日本政府は44年、朝鮮人の徴兵を始めた。日本軍の兵士として命を落とした人やシベリアに抑留された人もいた。教育行政権は37年、一部地域を除いて日本の朝鮮総督府が満州国へ移譲した。