2024/04/29 信濃毎日新聞
 朝鮮人満州移民の聞き取り重ね 重い事実に打ちのめされる

 朝鮮から満州(現中国東北部)への移民について研究する朴仁哲(ぼくじんてつ)さん(50)=札幌市=は昨年12月下旬、韓国の南西部で3日間、過去に聞き取りをした移民1世の故郷を訪ね歩いた。1世の多くが鬼籍に入る今、語ってもらったことの背景を知り、その記憶をより深く理解するためだ。

 益山(イクサン)市内の農村部。ある小学校跡にたどり着いた。「ここが、全(チョン)さんが幼少期を過ごした場所です」。2009~10年に中国ハルビン市で話を聞いた全日煥(イルファン)さん(1934年生まれ)が、1945(昭和20)年7月に満州へ移住する前に通っていた小学校だ。

 全さん一家は日本の植民地支配により、作った米も土地も奪われて食べていけなくなった。35年頃、両親は全さんら子どもを祖母に預け、一足先に満州へ移り住んだ。

 残された朝鮮での生活は貧しかった。食べていたのは、日本が満州から持ってきたというコーリャンや、豆の油を絞ったかす「豆餅」だ。

 朝鮮人が経営する学校に通っていたある日、日本の朝鮮総督府の教育担当者が調査に来た。「今日、何を食べたか」と聞かれ、子どもたちは「豆餅」と答えた。「おいしかったか」と重ねて尋ねられ、「おいしくなかった」「腐った豆餅を食べたから下痢をした」と素直に話した。その学校は反日教育を行っているとされ、数日後に閉鎖された。

 朴さんが聞き取りを重ねてきた朝鮮人満州移民は約100人に上る。満州への移住の要因を探ってきた。厳しい植民地統治による経済苦、強制連行から逃れるため―。理由はさまざまだ。朝鮮半島では未婚の女性が連れて行かれることも横行した。逃れるために15歳で結婚し、夫と満州へ行った女性もいた。

 その中でも裵洪原(ペホンウォン)さん(仮名、中国吉林省梅河口市)が印象深いという。家に泊まり込んで計6回、話を聞いた。

 裵さんは27年、3歳の時に朝鮮の咸鏡南道(ハムギョンナムド)から移った。政治的理由だ。父親は19年、日本の植民地支配に抵抗して起きた「三・一独立運動」に率先して参加。警察に捕まって拷問を受け、帰ってきた時は全身あざだらけだった。親戚を頼りに満州へ。後に北朝鮮の指導者となる金日成(キムイルソン)が抗日革命闘争を繰り広げていた国境の長白県へ向かった。

 だが、満州でも日本の支配からは逃れられなかった。

 日本は戦中、朝鮮人は志願兵の募集に限っていたが、兵力確保のため44年、徴兵の対象とした。すると裵さんに朝鮮の故郷から赤紙(召集令状)が届いた。朝鮮を離れてもう何年もたつ。なぜ分かったのか―。「イルボンノム(日本の奴ら)は本当に鬼のようだ。朝鮮人の状況を全部調べ、身動きできなくした」
 多くの1世が、自身を痛めつけた日本人を朝鮮語で「イルボンノム」と呼んだ。その意味を朴さんは考えてきた。それは日本人への蔑視を表すのではなく、植民地統治によって言葉と自由を奪われ、抑圧された1世たちが胸に秘めてきた挫折、悲哀、抵抗を込めた言葉なのではないか―。

 言語や国際交流に関心があって来日した朴さんだったが、「調べれば調べるほど、インタビューすればするほど、重い事実を知ることになった」。2002年に日本人女性と結婚、子どもを授かった。朝鮮、中国、日本の存在が自分の中に混在する。それだけに、その歴史の重さを受け止めきれなかった。戦争や植民地関連の文献は本棚の奥にしまい込んだ時期もあった。

[朝鮮人の満州移住]
 1910年の日本の韓国併合の前後から急増した。当初は政治的な理由で移る人も多かった。植民地統治下では、日本による土地の国有化をもたらした「土地調査事業」などで朝鮮人農民が土地を失い貧困化。行き場を亡くした農民たちが満州を目指した。鉄道インフラが整ったことも後押しした。30年代からは「満州国」成立を機に、日本の朝鮮総督府内部で国策移民が政策として具体化。朝鮮各道への集団移民の割り当てもあり、小作争議が多発していた朝鮮南部などから、内地からと同様に開拓団が入植した。また、青少年による満州開拓青年義勇隊や満州開拓女子勤労奉仕隊も送り出された。