2024/04/25 信濃毎日新聞
 県内でも計画―被差別部落の集団移民 語り継がれず、消えゆく記憶

 地区の132戸、722人のうち70戸を満州(現中国東北部)へ送り出す―。信州農村開発史研究所(佐久市)の冊子に、現小諸市の被差別部落の集団移民を巡る記載がわずかにある。1940(昭和15)年から毎年10~20戸を送り出す5カ年計画。戦時中、内務省に設けられた中央融和事業協会の機関誌「更生」の記事として紹介している。

 冊子のすぐ下の欄には現須坂市の被差別部落での計画もある。全41戸、185人を41年から3年間で送り出す内容。「更生」の記述は、働き盛りの世代ではない子どもやお年寄りが半数を超えていると課題を挙げつつ、移民の実現へ旗を振り続ける役場職員の「熱情」をたたえている。

 協会は、国などの力で被差別部落の地位向上を目指す「融和運動」を進める団体だ。理事の下村春之助は「更生」に寄せた評論で、差別観念は集団社会の意識であり、従来とは別の社会である満州に移れば「差別は解消する」と主張。差別を強いられている人たちに対し、移民は国策への協力との「一石二鳥」だと訴えた。運動は自治体も推し進め、県内でも浸透した。

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 だが、そうした被差別部落と満州移民の関わりを巡る県内の記憶は薄れつつある。

 3月2日、須坂市であった「解放子ども会」。子どもたちや地域住民ら約30人を前に、地元の被差別部落に住む荒井武夫さん(71)が講演した。20歳の時に差別用語を投げかけられて初めて差別を自覚。言い返せずに泣き寝入りしたり、住所を尋ねられても言えなかったりした若い頃の経験や、人と人が尊重し合う大切さなどを話した。

 ただ満蒙(まんもう)開拓については、この日も特には触れなかった。集団移民計画のあった集落の出身。地域の被差別部落の歴史に詳しく、地元や上高井郡小布施町の部落から満州に渡った親族もいた。だが引き揚げ後は他の地域へ移り、経緯や満州での暮らしなどは聞いておらず分からない。「もうどうしようもない」
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 小諸市でも同様に語り継がれていない。集団移民計画は、両市とも達成したとの記録はなく、頓挫したらしい。

 「農業三一」「商業七」「大豆三五石七斗」「大根四三○三貫」…。今月11日、佐久市五郎兵衛記念館。信州農村開発史研究所の所長、斎藤洋一さん(73)=山梨県中央市=は、現小諸市の被差別部落を巡り36年に作られた「経済更生計画書」を確かめていた。人口や戸数、農作物の収穫量などが細かく記されている。後の集団移民計画の下地にもなる資料だ。

 計画書は、24年に県水平社が結成された際の中心人物の一人、朝倉重吉(1896~1967年)が持っていた。遺族から研究所が預かる資料の中にあった。この集落は、朝倉の故郷でもあった。

 自力での差別解消を目指す「水平運動」に身を投じていた朝倉は、国などによる「融和運動」とは一線を画していた。だが水平運動が弾圧を受ける中、この頃は融和運動に追従し、満州への集団移民計画を容認していたのか―。斎藤さんは朝倉の苦渋を思う。

 朝倉の資料は段ボール箱で30箱近いが、ほとんど分析されていない。近世の被差別部落の研究が専門の斎藤さんは約35年間、小諸市を拠点に研究を続け、今は山梨に離れている。年齢も重ねてきた。資料からは満州とのつながりが読み取れる可能性もあり「本当は誰かが研究しないといけないのだけれど…」。一部は文字がかすれつつある。

<抵抗通じて解消するか>
[水平運動]
 被差別部落への差別の原因は部落外の差別する側にあるとし、部落の個々人が差別に抵抗していくことで差別解消を目指した。警察の不当な取り調べに抗議したり、地域の共有林を部落の人が使えない状況に声を上げたりといった闘争を重ねた。1922(大正11)年に全国水平社が京都で創立され、「人の世に熱あれ、人間に光あれ」などとする水平社宣言を掲げた。24年に県水平社が設立された。融和運動と対立しながら拡大するが、31年の満州事変以降、社会運動への弾圧が激しくなる中で衰退した。

<部落外に支援求めるか>
[融和運動]
 被差別部落への差別の原因は部落の劣悪な衛生や教育などの環境にあるとし、部落外に理解と同情を求めて支援を受けることで、部落内部の状況を改善して差別を解消しようとした。「日本人は等しく天皇の赤子である」との考え方に基づく。国や富裕層などの支援の下、治安対策や衛生環境の改善などに取り組んだ。世界恐慌後の部落の経済再生を図る「更生運動」も進めた。推進団体として1914(大正3)年に帝国公道会が発足。県内では20年に信濃同仁会(37年に県同仁会に改称)が設立された。