2024/04/24 信濃毎日新聞
 熊本の被差別部落、差別加担した無念 「お国に貢献」のつもりが

 大古洞(たいこどう)下伊那郷(ごう)開拓団の元団員、北村栄美さん(90)=下伊那郡大鹿村出身、岐阜県池田町=が、満州(現中国東北部)で被差別部落の出身者たちがいたと記憶する集落「朝日部落」。10歳だった北村さんが、ここで子守をした女性(81)が飯田市に暮らす。当時は1、2歳。父は馬の繁殖、母は牛の世話をして過ごしていたと聞いた。

 女性は、被差別部落にまつわることは両親から何も聞いていないが、母からは「どんな人とも分け隔てなく接しないといけないよ」とよく言い聞かされた。両親は当時、家で働いていた現地の人にも手荒なことはせず、それもあってか、ソ連の対日参戦後の逃避行では現地の人に助けてもらったという。

 被差別部落問題などに取り組む人権センターながの(長野市)の事務局長、高橋典男さん(64)も「朝日部落」については聞いたことがない。古い資料に当たったが、来歴は分からなかった。被差別部落から満州へ渡った記録は、全国的にもほとんどない。

 ただ、国などは差別の解消と貧困からの脱却を掲げて被差別部落の人たちを満州へと誘った。天皇を中心とした「民族融和」によって差別解消を図るとする国家主義的な「融和運動」の一環だった。

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 全国で唯一、被差別部落の人たちを中心に組織された満蒙(まんもう)開拓団の来民(くたみ)開拓団。熊本県来民町(現山鹿市)から満州へ渡った。同県や町は準備金も用意し、1941(昭和16)年から吉林省扶余(ふよ)県五家站(ごかたん)に入植。82世帯316人が暮らしたとされる。

 厚い土塀に囲まれたれんが造りの家。5家族が一組となり、コーリャンや大豆、キビなどを計30町歩(約30ヘクタール)の畑で育てた―。地元に伝わる元団員の証言記録からは豊かな暮らしぶりがうかがえる。

 一方、心痛も吐露している。荒野を開拓するつもりで着くと、現地の人たちから買い上げた農地や家屋などが用意されていて、そのままの形で入植した。家屋からは住民に退去してもらわなければならない。「出て行くときゃ涙ぐんで…。あんときゃ、自分ながら心を打たれたです」。農地などの買い上げには日本の関東軍が関わっていた。

 敗戦直後、開拓団は現地民の襲撃を受けた。出征者を除く女性や子ども276人のうち、?末(てんまつ)を古里に報告するための1人を残して全員が45年8月17日、集団自決した。

 「満州移民に差別の構造があると気付いたのは、渡った後や引き揚げた後だったようです」。同開拓団の歴史の語り部で、遺族会長を務める森山英治さん(69)=山鹿市=は話す。叔母が団員だった。

 父の故義男さんは43年、開拓団を心配して満州に渡り、南満州鉄道に就職。程なく召集されて仲間と離れ、悲劇を防げなかったことを悔やみ続けた。「地位向上のため国に貢献することが、内実は差別に加担することだった」。被差別部落に生まれ、差別や偏見には敏感であったはずなのに―。森山さんは犠牲者や遺族の無念を思う。

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 人権センターながのの高橋さんの手元に一冊の冊子がある。農村や被差別部落の歴史を調べている信州農村開発史研究所(佐久市)の元所長の故川向秀武さんが、戦時中の新聞や雑誌から被差別部落に関連する記事を拾い上げてまとめていた。そこには、現在の須坂市や小諸市にも集団移民の計画があったことが記されていた。