2024/03/27 東京読売新聞

 ◆人の死 ありふれていた時代の記憶 兄と過酷労働 家計支える
 京都府の船津富美子さん(91)は12歳の時、中国・大連で終戦を迎え、兄と必死で働いて家計を助け、引き揚げを待った。昨年8月の連載「引き揚げを語る」を読み、体験を後世に残したいとの思いを新たにした。(山田朋代)
 大連の高等女学校の1年生だった1945年8月15日、同級生らとともに講堂で玉音放送を聴いた。内容をすぐには理解できなかったが、教室で先生から敗戦を知らされた。

 帰り道、一人で通学路のポプラ並木を歩いている時にビシッと音がした。地面に投げつけられた小石が転がっていた。驚いて逃げようとしたが足がすくんだ。次々に小石が飛んできて、どこからか笑い声も聞こえてきた。その時、「日本は負けたんだ」と実感した。

 父の千嘉蔵さんは中国人の学校の校長をしており、職を失った。まもなくソ連軍の進駐も始まった。大柄の男が、日本人から奪ったと思われる腕時計を両腕にずらっと着けて歩いていた。5歳上の姉は髪の毛を丸坊主にした。「毎日おびえて生活していました」
 秋が深まるにつれて、生活は苦しくなり、家財道具やたばこを売っては食べ物を買った。道ばたに倒れている日本人を見かけるようになったが、「人の死がありふれていた時代。誰かが路傍で死んでいても、気にする余裕はなかったんです」。

 「売る物は何もなくなった。兄さんとあんたは働きに出てほしい」。46年秋、意を決したように母の寿恵野さんが言った。15歳の兄と2人、ソ連の会社が運営する漁網工場で働くことになった。氷点下にもなる冷え切った室内で、来る日も来る日も、糸繰り機で4本の糸を1本に繰り合わせて漁網作りに携わった。うまく繰ることができず、機械を回す度にぷつりと切れる糸をつないだ。情けなくて涙がこぼれた。「それでも働かなければ食べていけない。玄関前で涙をぬぐって帰宅しました」
 「いつまでこんな生活が続くのだろう」。不安が募る中、47年1月、家族5人が佐世保港にようやく引き揚げることができた。上陸して見た日本の青々とした山の美しさは今でも忘れることができない。

 「実体験として詳細な記憶を証言できるのは私たちの世代で最後かも」。そんな焦燥感の中、身近な人に体験を語り継ぎたいと感じている。

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 寄せられた体験談を随時掲載します。

 ◆中国残留孤児の自立支援 
 日本に引き揚げることができた人がいた一方、終戦後の混乱で取り残されたのが中国残留孤児だ。船津さんは、中国語を習っていた縁で、65歳の時に地元自治体の担当課から「帰国した中国残留孤児の自立支援を手伝ってほしい」と頼まれ、支援に携わった。以降、77歳になるまで従事した。

 受け持ったのは4家族。5歳で現地の農家に売られた女性は、引き取られたその日から妹にあたる赤ちゃんを背負って面倒を見させられた。

 帰国した残留孤児の多くは日本語に苦戦していた。戸籍登録や通院の付き添いなどで船津さんはあちこちを駆け回った。「取り残された人たちの苦労は人ごとと思えなかった」。近年は残留孤児も高齢となり、悲しい知らせを聞くようになったという。

 写真=翻訳に携わった中国残留孤児の手記を手に、支援活動を振り返る船津さん(京都府内で)