2024/03/19 信濃毎日新聞
 50代で妻は逝き、得られぬ支援 独り日本で、法のすきまに

 日本語のテキストに指を添わせ、一文字一文字、丁寧に読み上げていく。「おからだ、ふきましょうか」「おねがいします」。2月1日、上田日中友好協会が上田市の「室賀温泉ささらの湯」で開いた日本語教室。帰国した中国残留日本人1世と2世の計7人が、介護の現場で交わされる会話を学んだ。ボランティアに導かれ、孫祥(スンシャン)さん(91)=埴科郡坂城町=も一生懸命に日本語を発音した。

 協会は月2回、上田地域などの中国帰国者向けに、ささらの湯で教室を開いている。一緒に昼食も食べ、お風呂へ入って帰宅する。それぞれ高齢となり、言葉が伝わらないため地域でも引きこもりがちで、この日は楽しそうな中国語が飛び交った。

 だが終わりに近づくと、孫さんは日本語と中国語を交えて漏らした。「独りで寂しい。娘、別々。仕事ない。年取ってずっと1人でいるから、日本語も中国語も忘れかけている。孤単(クータン)(孤独だ)」―。


 孫さんは、中国残留孤児の故山城和四(かずし)さんの夫。和四さんは更級郡村上村(現坂城町)出身で、更級郷(ごう)開拓団の一員として満州(現中国東北部)に渡った。夫妻は中国・黒竜江省の勃利県から1987年7月、子ども7人のうち3人を連れて来日。坂城町内で暮らし始めた。孫さんは54歳、和四さんは52歳。後に、他の子ども4人も来日した。

 孫さんは、日本語を学ぶ間もないまま製造業の工場で働いた。時給は当時600円ほど。生活は逼迫(ひっぱく)していた。

 和四さんは、家族で日本に来られたことこそ喜んだが、慣れない暮らしで持病が悪化。医療費の心配から受診を控え、中国から送ってもらう薬を飲み続けた。定期健診を受ける方法も分からなかった。来日から1年半ほどの89年3月の朝、自宅で倒れ、病院に運ばれたまま亡くなった。

 「日本に来てから、何の楽しみも味わう間がなかった」。来日時、小学6年だった末娘の三浦奈美さん(49)=長野市=は母を悼む。和四さんは、最期に中国語で奈美さんの名を呼んだという。

 孫さんは62歳で退職後も、別の会社に移って75歳まで働いた。2014年、帰国した残留日本人本人の死後に、その配偶者が困窮しないよう、日本政府は新たな支援金制度をつくった。孫さんも町役場に問い合わせた。だが対象外だった。対象になるのは残留日本人本人が60歳以上で死亡した場合。和四さんは亡くなった時、54歳だった。


 「すべての配偶者に支援給付・配偶者支援金を!」。中国残留孤児国家賠償訴訟の弁護団全国連絡会などは23年7月、訴訟終結後も毎夏に行っている厚生労働相との面談で、六つの要望事項の筆頭に配偶者への支援拡充を掲げた。孫さんのような例は少なくないからだ。「法のすきまとも言える不合理な格差だ」。連絡会の米倉洋子弁護士(東京)は国の対応を注視する。

 孫さんは現在、生活保護を受給する。来日当初から住む町営住宅は老朽化し、入居者が減ってがらんとしている。娘と同居したいが、子ども世帯の収入が考慮されて受給額が減ったり、もらえなくなったりする可能性があり、独り暮らしを続ける。

 「自分に力があれば養えるのに…」。奈美さんは自分を責めてしまう。足しげく通い、料理を作り置きして帰る。娘の車が見えなくなるまで、外に出て手を振る孫さん。バックミラーに小さく映る父の姿に、いつも泣けてくる。

[中国残留日本人の配偶者への支援]
 中国残留孤児たちによる国家賠償訴訟をきっかけに日本政府が2008年に創設した新支援制度で、帰国した残留日本人の配偶者も支援給付(月額最大8万円)を受けられるようになった。14年には残留日本人の死後に配偶者が困窮しないよう、満額の老齢年金の3分の2相当額(23年度は月額約4万4000円)の支援金制度を設けた。厚生労働省によると、支援給付は老後の経済的安定を図ることが目的だとして、60歳以上で死亡した残留日本人の配偶者を対象としている。