2024/03/15 信濃毎日新聞


 この地に生きることを選んだが 家族の支え、頼みの綱
 中国にいる時から大切に握りしめてきた1枚の小さな写真。飯田市大瀬木の渋谷幸子(さちこ)さん(77)は、住んでいる市営住宅の一室に大切に飾っている。少女時代の母喜代子さんだ。「お母さんは私の生命をくれた人。一番大事な人」。自分の母親が日本人だと知ったのは17歳の時だった。

 高校卒業前の1966(昭和41)年、中国で文化大革命が始まった。就職活動で身元を調査され、教師から「母親は日本人」と告げられた。頭が混乱した。幼い時からテレビでは反日映画が流れ、日本人は見下げる対象だった。養母に尋ねると、喜代子さんを引き取り、幸子さんを授かった後、喜代子さんが家を出ていった経緯を教えられた。

 「お母さんはどんな人だろう」「どういう気持ちで私を産んだの」「なぜ私を置いていったの?」。出自を知り、感情があふれた。母親への思いをひそかに募らせた。

 72年の日中国交正常化後、日本のことを知りたくて、日本映画を何本も見た。その一つ、森村誠一原作の「人間の証明」。日本人女性と黒人米兵との間に生まれた息子が日本に産みの母親を訪ねるが、母親は迷惑がり殺してしまう。「私は母親にとって余分な存在かもしれない」。母親探しからいったん遠のいた。

 本格的に探し始めたのは、日本政府による訪日調査が始まった80年ごろ。最終的に分かったのは、喜代子さんは53年、26歳の時にハルビンで死亡していたということだった。家を出た後、帰国の機会を待つ間に日本人男性と結婚。男児をもうけたが、息子が1歳の時に病気で亡くなった。男性に言い残していた。「私にはもう一人、女の子がいる。必ず探し出して、日本へ連れ帰ってほしい」
 幸子さんは日本に来てから、喜代子さんの故郷の下伊那郡阿智村智里を訪ねた。母の同級生に会い、通った学校にも足を運んだ。気丈な人だった―と聞いた。「短い人生だった。お母さんの分まで生きたい。どういうふうにつらかったか、知ってあげたい」
 幸子さんはかつて、結婚して大分に住む一人娘の美子(よしこ)さん(52)から、一緒に住まないかと誘われて悩んだ。長く暮らしてきた飯田には、困った時に相談できる友人がいる。公民館の文化祭でギョーザを作って振る舞ったり、文化講座を楽しんだり。車の運転も好きだ。結局、飯田で生きることを選んだ。

 そんな幸子さんの人生に最近、大学4年の孫、赤星弥友(みゆ)さん(22)=東京=が関心を抱いている。小学6年の時、阿智村に満蒙(まんもう)開拓平和記念館ができ、家族で訪れた。祖母の日本語が「少し変」だったり、祖母には中国語を話す友達がいたりと、疑問に思うことがたくさんあった。帰りのバスの中で、家族の物語を母から聞いた。学校では満州の歴史も習っていた。「おばあちゃんが関係していたのか」
 今年の正月、幸子さんの家に弥友さんが遊びに来た。幸子さんの得意料理の肉まんを皮から一緒に手作りした。大学で中国語を習っており、北京への留学を目指している。「おばあちゃんが年を取って日本語を忘れてしまった時のために、私が勉強する」
 屈託なく話す孫の気持ちが、幸子さんはうれしい。だがそれは、家族や地域の支えが頼みの綱となっていることの裏返しでもある。「私たちは日本では弱い階層。一番下の下」。遠くない将来への不安が重くのしかかる。