2018/11/21 朝日新聞/広島県

 戦時中、当時の世羅郡から旧満州(現・中国東北部)へ渡り、集団自決などで多くの犠牲が出た開拓団員らの慰霊祭と証言会が18日、世羅町であった。親世代の経験が忘れられる前にと、敗戦当時子どもだった「2世」が語り継ごうとしている。
 「敗戦後は現地民が入れ替わり略奪に来た。五十数人いたある集落は、将来を悲観し、晴れ着を着て全員自決したそうです」
 世羅町の龍華寺。境内には犠牲者の名前が刻まれた石碑があり、元開拓団員の大工谷博旦(だいくやひろあき)さん(82)は声を震わせながら追悼文を読み上げた。僧侶が読経し、参列者約20人が合掌。3年ぶりの慰霊祭だった。
 戦時中、当時の世羅郡(現・世羅町と隣接市の一部)13町村からは、国策のもと、中国東北部の吉林省・金馬村に二つの開拓団が送られた。現地には広島県立の農場もでき、約730人が移住したが、敗戦後の混乱で160人以上が亡くなったという。
 大工谷さんは5歳のとき家族と移住。しかしまもなく両親が病死し、敗戦前に帰国。開拓団での悲劇は知らずにいた。
 転機は1970年代後半。当時、親世代が記念碑の建立や開拓史の編集を進めていた。手伝いに呼ばれ、話を聞くうちに、悲惨さに言葉を失った。ある人は、同じ村の女性が隣室でソ連兵にレイプされていても、何もできない無力さを語ってくれた。「『あの生き地獄は体験した者にしかわからない』。よく言われました」
 80年代には子ども世代による「二世の会」ができ、大工谷さんも参加。親世代がこの世を去る中で、二世の会が主体となり慰霊祭を営むようになった。現在、大工谷さんは会長を務める。「体験や記憶がないからこそ、語り継ぐ使命があると思うんです」

 ★講演会や体験集、今後も
 18日、慰霊祭に続き、せら文化センターで開いた証言会には約70人が集い、残留孤児らを家族に持つ人の体験に耳を傾けた。
 満蒙開拓の歴史や残留孤児への支援に詳しい広島大学大学院の河本尚枝准教授が基調講演した。旧満州での開拓関係者以外も含めた民間人の犠牲者数は、諸説はあるが約25万人に上る、と指摘。「それなのに学生から旧満州の位置を質問されることが多く、歴史が埋もれかけている」と懸念を示した。
 会場には当時の開拓団長が故郷へ送った手紙も展示された。収集したのは世羅町教育委員会の文化財保護委員を務める山下義心さん(82)。親戚が元開拓団員で、関連資料の収集と保存を30年近く続けている。「県内でも満州に渡った人が多いのが世羅。町としても伝えていくべきなんです」。今後も大工谷さんと、講演会や体験集作成を企画したいという。(新谷千布美)

 ★キーワード
 <満蒙開拓> 1931年の満州事変後、国が進めた農業移民政策。昭和恐慌で打撃を受けた農村の救済などを目的に地域ごとに開拓団や10代の少年らによる義勇軍を組織して旧満州へ移住させた。約30万人が渡ったが、45年8月のソ連軍侵攻後、集団自決や難民生活で約8万人が亡くなったとされる。「広島県満州開拓史」によると県内から約1万2千人が送られ、約3千人が犠牲になった。
 【写真説明】
 慰霊祭で追悼文を読み上げる大工谷博旦さん(中央)=いずれも世羅町
 町に寄贈された当時の開拓団長の手紙などを紹介する山下義心さん
 龍華寺の境内にある開拓団の犠牲者の名前が刻まれた記念碑