2015/12/13 佐賀新聞

 日本が1931年、満州事変を引き起こした翌年、中国東北部に「満州国」が建国された。独立国として「五族協和」と「王道楽土」をスローガンに掲げたが、実際には日本人が実権を持つ「かいらい国家」だった。日本は国策として、満州北部への集団移民「満蒙開拓団」を推奨した。最も多く送り出されたのが長野県で、山形、熊本、福島県と続き、その数は全国で約27万人とされる。
 
 長野県阿智村にある「満蒙開拓平和記念館」は、開拓団に特化した全国初の資料館として、2013年4月に開館した。専務理事の寺沢秀文(61)は、設立の目的を「不都合な史実にも目を向け、戦争の過ちを繰り返さないため」と話す。
 
 日本は開拓団を、満州北方のソ連国境地域を防衛する「人間の盾」としていた。1945年8月、ソ連が対日参戦した時、満州に展開していた関東軍は南に移動し、置き去りにされた開拓団には多くの犠牲者が出た。シベリアに抑留された人も少なくなく、取り残された子どもたちが残留孤児となる悲劇も生まれた。
 
 だが、開拓団の歴史はそうした被害だけではない。記念館の展示では、加害者としての責任にも言及している。「現地の人々にとって開拓団は自分たちの土地を奪う存在であり、満蒙開拓は侵略の加担という側面もありました」
 
 記念館には全国から多くの人が訪れ、来館者は7万9千人を超えた。両親が開拓団の一員だった寺沢は「戦前から戦後にかけ、開拓団は国策に運命を左右され続けてきた。その歴史から学ぶことは多い」と話している。(敬称略)