2015/08/16 神奈川新聞<面名=総合>

 半生を費やして「戦争の昭和」を撮り続けてきた写真家、江成常夫さん(相模原市中央区)は、戦後が負う「二つの罪」を思う。満州事変に始まる十五年戦争を引き起こし、アジア・太平洋地域で千万単位の人々を死なせたこと。そして、その歴史を忘れてきたことだ。戦後復興の一方、南海の小島にはいまだ故郷に帰れぬ遺骨が眠り、中国大陸には敗戦とともに置き去りにされた孤児たちがいる。写真家が見たこの70年とは-。 (斉藤 大起)

 「戦後日本の象徴のような風景でしょう」。4車線の国道に沿って巨大なショッピングモール、レストラン、コンビニが切れ目なく続く。江成さんが生まれ育った相模川沿いの農村は半世紀を経て、繁栄を体現する街になった。その風景は、中国東北部で見た「日本」の裏返しだった。

★繁栄の陰に
 「経済大国なんていう言葉が吹聴されていたころです、戦争孤児の問題に取り組むようになったのは」。戦後、中国に取り残された孤児の肉親捜しを日本政府が本格的に始めたのは、終戦の36年後だった。
 彼らの多くは、日本軍の関東軍が1932年、中国東北部に傀儡(かいらい)国家「満州国」を打ち立てた後、国策で移住した農業移民「満蒙(まんもう)開拓団」だった。その数、32万。江成さんは「満州国」の跡を歩いた。そこでフィルムに刻んだのは、幾重もの格差、矛盾、虚構だった。
 壮大な都市計画が敷かれた長春(旧首都・新京)や瀋陽(旧奉天)には旧関東軍の司令部や贅(ぜい)を尽くした内装の旧ヤマトホテルが残っていた。一方、開拓団員が暮らした農家は、草ぶきの屋根、土壁、土間の粗末な造りだった。冬は氷点下40度になる酷寒の地に、当時は水道も電気もなかった。
 言葉を失った。「『満州国』が掲げた五族協和、王道楽土は真っ赤なうそでした。漢人や朝鮮人などと手を携えるはずが、現実には神社仏閣を建て、街の名前を日本風に変え、皇国化を進めた。それに開拓といっても、実際は現地民の農地を奪っただけなんです」
 戦況が悪化した45年、開拓団の男手の大半が召集された。同年8月9日、女性や子ども、高齢者ばかりの農村にソ連軍が侵攻した。開拓団の死者は8万に上るといわれる。「彼らを守るべき関東軍は真っ先に逃げました。しかも各所で橋を爆破して」。侵略の末の破滅。それを覆い隠すかのような戦後の経済至上主義。孤児に向けたレンズ越しに、江成さんは日本の「原罪」を読み取った。

★言葉を撮る
 欺瞞(ぎまん)は「満州国」の話だけではない。現在、私たちが使う言葉にも潜む。
 孤児たちは「中国残留孤児」「在留邦人」などと称される。江成さんは言う。「残留という言葉に、政府の責任逃れを感じる。だから私は、あえて戦争孤児という言葉を使います」。開拓団や沖縄の住民たちによる「集団自決」も同様だ。「満州でも沖縄でも『自分で決める』ことのできない幼子が死を強いられた。自決でなく集団死です」
 言葉に敏感なのは、ただ写真を撮るだけでなく、多くの戦争経験者に会い、その言葉に耳を傾けてきたからだ。江成さんが70年代半ば、最初に取り組んだテーマは、終戦直後に進駐した米兵と結婚した「戦争花嫁」だった。敵国同士だったために彼女らは夫婦双方の親類から疎まれた。それでも故郷を思い続けた。
 江成さんは取材のために1年間、米カリフォルニア州に居を構えた。訪ねた花嫁は数十人、聞き取りの録音テープは数百時間。彼女たちの生活の場に身を置き、自分の体に土地の空気をなじませ、対象との信頼関係を築く。カメラを向けるのはその後だった。
 「話を聞いていると胸が詰まったんです。親に勘当されたとか、言葉が通じなくて自分の子に英語を教わったとか…」。戦争が深い溝を刻んだ日米のはざまで時代と葛藤しながら生きた彼女たちへの共感は、写真だけでなく文章でも表現した。成果は、300ページを超えるルポルタージュとして刊行された。「当時の写真界は、写真に言葉を付けることに懐疑的でした。でも私は写真がどうのではなく、一番説得力のある仕事をしたかったのです」

★愚直な矜持
 江成さんは「対象との整合性」を自問し続けた。自分は相手の生きざまを取材するに値する存在なのか-という問いだ。目の前の物を機械的に撮るのではなく「なぜ花嫁か、なぜ孤児か」と、そのたびに確認する。そうして築いた一連の仕事は、突き詰めれば「戦争をどう伝えるか」という、私たちが直面する課題への示唆ともなった。
 58年に刊行された土門拳の写真集「ヒロシマ」を、36年生まれの江成さんは同時代に読んで衝撃を受けた。リアリズムの手法を駆使し、現前する被爆者の苦悩を鋭く切り取った作品だった。けれども、江成さんはすぐに「後追い」しなかった。「ヒロシマを撮る」ことへの心構えが固まるまで、あえて避けた。
 広島に足を踏み入れたのは、花嫁や孤児の仕事を経た85年。ここでもまず被爆者の話に耳を傾けた。被爆を語る責任を自らに浸透させるためだ。一方で原爆の痕跡は、土門の時代から四半世紀を経て街から消えていた。江成さんがレンズを向けたのは、かつて熱線に多くの人が焼かれただろう道端であり、遺体が折り重なっただろう川であり、人々の無念を宿すようにも見える花々だった。「痕跡のない街」をあえて写した。
 現代の風景を撮りながら、聞き取った言葉を織り込んで戦争を現代に呼び戻す-。江成さんが考えた、戦争が遠ざかった時代なりの方法論だった。これも、写真と300ページ超の文章。それは手間のかかる、それでいて地味な仕事だった。
 「ちょこっと奇抜に撮れば簡単に“商品”にできるでしょう」。特殊なレンズやフィルターなど技巧を凝らし、必要以上におどろおどろしく写す。あるいは被爆者の遺品ばかりをカタログのように撮る…。だが、江成さんはそうしない。
 「写真の絶対的な価値は『記録』です。それを前提に、表現者として固有の仕事をしたい。けれども、創造の思い入れが強くなるほど、記録すべき本質が見えなくなってしまう。その葛藤を乗り越えなければ」。創作への誘惑を払いのけ「真っすぐに見て撮る」。それは「悲惨な戦争」といった常套(じょうとう)句を用いることなく、現場で一人一人に話を聞き、あるいは権力に踏みにじられて命を落とした人々に寄り添う取材姿勢と重なる。
 「私はアマチュアです」と、数々の受賞歴のある写真家は言う。40年を費やした「戦争の昭和」の写真が“商品価値”を持たないことを、むしろ矜持(きょうじ)としているのだ。「物質本位の現代への異議申し立てであり、戦争を忘れようとする社会への抵抗です」

「インドネシアのビアク島にはまだ数千もの遺骨が残っている。それが戦後70年の現実です」と話す江成常夫さん。大病を患ったが、その後、日米が激戦を繰り広げた南洋の島々も巡った =相模原市中央区の自宅