2015/08/15 京都新聞

 70年前の終戦の日前後、何を見て何を思ったのか。2人の俳優に振り返ってもらった。
★俳優・宝田明さん ソ連兵に銃突きつけられ、震え
 父が鉄道技師として南満州鉄道(満鉄)で働いていたので、旧満州(中国東北部)のハルビンで小学校生活を送りました。朝礼では「日出づる国・日本」に向かって頭を下げ、好むと好まざるとにかかわらず軍国少年に育ちました。
 米軍が長崎に原爆を落とした1945年8月9日。日ソ中立条約を破棄したソ連は満州に侵攻し、関東軍はあっという間に蹴散らされました。ラジオで玉音放送を聞いたのは満鉄の社宅。内臓をえぐり取られたような気持ちになりました。8月15日は終戦の日と言いますが、私たちには「2回目の戦争」が始まっていたのです。
 ある日、自動小銃を持ったソ連兵が社宅に侵入し、食事をしていた私のこめかみに銃口を当てました。歯を食いしばろうと思っても、全然かみ合わない。歯の音だけがガタガタと鳴り、震えが止まりませんでした。社宅裏の土手で女性が暴行されるのも見ました。
 家族の引き揚げが決まったのは46年11月。列車や深夜の「行軍」で南方に向かいました。ハルビン出発から2カ月半で南満州の葫蘆島に着きました。その間「必ず迎えに来る」と言って現地の人に子どもを預ける母親を何人も見ました。食料もなく衛生状態も悪い中、子どもを守るためです。
 戦争は一握りの人間の判断で始められますが、犠牲になるのはいつも無辜(むこ)の民です。今の日本に中国残留孤児の十分な受け入れ態勢があるでしょうか。腹が立って仕方がありません。
 役者という仕事は右から左までいろんな考え方の人がお客様です。従ってノンポリを心掛けてきましたが、還暦を過ぎたころに「おい宝田、役者である前に」という声が聞こえました。自分の体験を若者に伝え「君たちはどういう選択をするのか」という問い掛け、リレーのバトンのようなものを次の世代に渡したいと思っています。
 あのころ帰りたかった祖国の今ですか…。ウイスキーの原酒造りのようにたるの中で“熟成”されてきた平和憲法は、たがが外れて漏れ始めています。そのうち「数の力」で全てが大地に流されてしまうのではないでしょうか。
 たからだ・あきら 1934年生まれ。主な出演映画は「ゴジラ」「ミンボーの女」など。共著に「平和と命こそ」

★女優・赤木春恵さん 身を守るため「老婦人」に扮装
 終戦の年の2月、兄がつくった軍事慰問をする劇団に加わるため旧満州に渡り、そこで終戦を迎えました。21歳の時です。振り返れば、何度も死線をさまようような経験をしました。
 8月初旬、ソ連国境に近い町の慰問先に着くと、部隊長さんが「慰問どころではない。夕食を召し上がったらお帰りください」と言うのです。豚を1頭つぶし、食事を振る舞ってくれました。
 遠くで「ドーン、ドーン」と音がするので、何の音かと聞くと「戦争ですよ」と。ソ連軍の侵攻だったことは後で知りました。
 ハルビンに戻って数日後、知人の家で玉音放送を聞きました。雑音がひどく言葉も難しい。一緒にいた男性の会話を聞いて、ようやく敗戦を知りました。それから日本に引き揚げるまでの1年2カ月、ウエートレスやダンサーをやって必死に生活しました。
 ソ連兵から身を守るため、髪におしろいを付け、顔にしわを描き、老婦人に成り済ましたこともありました。女優ですから扮装(ふんそう)は得意でした。夜にソ連兵数人が訪ねてきたことがあります。扉を開けなければ、どんな目に遭うか。恐る恐る開けると“老人”しかいないのを見て「ニーハラショー(良くない)」と言って立ち去りました。殺される可能性もあったので心底ほっとしました。
 満州開拓団の収容所を慰問で訪れ、そこで発疹チフスに感染してしまった時は本当につらかった。高熱に苦しみ、隔離病棟では、うわ言のように「私は死なない」「日本に帰るんだ」と繰り返していたそうです。
 終戦翌年の10月に船で博多に着き、ようやく日本に戻って来ることができました。京都に残っていた母とは再会できましたが、2人の兄は戦病死しました。
 またいつか、日本が戦争に巻き込まれるんじゃないかと不安です。戦争は殺し合い。なぜ、人と人とが殺し合わなければならないのでしょう。70年間平和にやってきたのですから、これからもそうあってほしい。当時はお上の言うことに従うのが当たり前でしたが、今はイエス・ノーがはっきり言える時代。もう戦争は結構です。
 あかぎ・はるえ 1924年生まれ。主な出演作に「渡る世間は鬼ばかり」「ペコロスの母に会いに行く」など。(共同)