2015/08/15 朝日新聞 /静岡県

 ◇戦後70年
 あれは節(せっ)ちゃんだったに違いない――。
 美馬茂子(81)=浜松市北区=は12歳のとき、中国・撫順(ぶじゅん)の市場で、幼なじみの宇山節に出くわしたという。
 節の一家は戦時中は満州で過ごし、戦後の混乱の中で8歳だった節を中国人に預けた。同じ境遇だった。
 「節ちゃん、わたし茂子だよ」。茂子は中国服のくりくりした目の女の子に話しかけたが、なぜか背を向け走り去った。「しっかり追いかけて、住所だけでも聞けばよかった」と茂子は悔やむ。
 節の姉、宇山史子(86)=大阪市=ら家族は節の安否を気に掛けている。消息を求めて中国残留日本人を訪ね歩き、期待を持ったこともあるが、もう10年以上手がかりがない。
 「節が生きていれば77歳。いまさら日本で暮らすことは無理だろうが、せめて一度会って話をしたい」
 史子は訴える。

 厚生労働省によれば、1972年の日中国交正常化以降、中国から約6700人が家族同伴などで永住帰国した。
 茂子の家族や弟の五郎(故人)のように日本語が不自由なまま入国した人が多い。このため就職もうまくいかず、生活保護を受けてきた人が目立つ。そして高齢化とともに孤立が深刻になっている。
 ある日の午前4時過ぎ。
 浜松市の支援相談員で、中国出身の曾美真(ソミマ)(61)の携帯電話が鳴った。91年に永住帰国した男性の妻からだった。妻は夫が死亡したことを告げ、看護師に電話を代わった。中国人の妻は日本語ができないため、曾に通訳を頼んだのだ。
 曾は遺体の運び先を看護師に伝えると、葬儀会社にも出かけ、妻に代わって葬儀の日程や費用を打ち合わせた。
 県内には中国からの永住帰国者が40人ほど暮らしている。曾ら支援員2人は浜松市在住の永住帰国者11人や配偶者、子どもたちの相談に乗るなどしている。
 帰国者や家族が病院にかかれば、医師に痛みや不安を伝え、手術にも立ち会うこともある。帰国者らが入所している高齢者施設から「大声を出している」と電話があれば急行する。通訳依頼は年々増え、1日で2、3カ所、病院や施設をはしごすることもある。
 81年に永住帰国し、一人暮らしの男性(80)は肺を病み、曾に「中国語が話せる施設を探してほしい」と頼んだ。施設は見つからず、男性は入所をあきらめた。近所づきあいもなく、家にこもりがちだ。
 永住帰国した男性とともに来日したある妻は高校生の孫娘から「この家には愛情がない」となじられた。孫が「行ってきます」「ただいま」とあいさつしても、女性は日本語が話せず、「うん」としか言えないからだ。逆に孫は中国語が分からない。
 「家庭でもコミュニケーションを図れない」。女性は涙ながらに曾に打ち明けた。
 84年に埼玉県に帰国直後の人たちのための定着促進センターが設けられ、日本語や日本の習慣などを学ぶ場ができた。2001年には日本語を継続して学べるなどの支援・交流センターが開設され、現在は全国7カ所にある。しかし帰国者や家族が日本に根付くことは容易ではない。

 01年12月、3人の帰国女性が、国策で満州に送り出されたのに国は早期の帰国支援や生活支援をする義務を怠ったなどとして、国家賠償を求める訴えを起こした。翌年から全国の帰国者が次々と提訴した。これをきっかけに08年に改正中国残留邦人等支援法が施行された。
 永住帰国者に対し(1)国が保険料を負担し、満額の老齢基礎年金を支給(2)それでも生活が安定しない場合は、従来の生活保護に代わり、医療や介護、住宅などの「支援給付」を支給――されるようになった。
 だが曾は病院の受け付けなどで「支援給付」を説明しても、その意味どころか中国残留日本人の存在を理解していない日本人が多いという。
 「私は中国人から見れば日本人だが、日本人から見れば中国人。私は何者?」。帰国者たちが問いかけるそんな状況はいまだ変わっていない。
 今も中国からの永住帰国は年数人のペースで続いている。戦後70年、旧満州に取り残された人たちの傷痕は、消えていない。=敬称略、おわり
 (高田誠が担当しました)
 【写真説明】
 美馬茂子さん(左)の訴えに耳を傾ける支援員の曾美真さん=浜松市北区