2010/10/27 朝日新聞

 1945年8月の敗戦前後の混乱で生き別れになった姉弟が、姉が暮らす北朝鮮で65年ぶりに再会した。喜びもつかの間、自由な行き来とはほど遠い現実 に、身を切られる思いで別れてきたという。戦後65年がたっても日朝間の国交正常化は進まず、北朝鮮の残留邦人問題=キーワード=は放置されたまま だ。(編集委員・大久保真紀)
 訪朝したのは横浜市の丸山毅さん(76)。9月7日昼、北朝鮮の首都・平壌のホテル。ロビーに入ってきた一行の中に、姉の節子さん(81)の姿を認めた。顔をのぞき込むように近づいてきた姉の手を取り、肩を抱いた。
 「会えてよかった」と涙ぐむ姉を見ながら、一昨年暮れに99歳で亡くなった母を思い、胸が痛んだ。「あともう少し早ければ……」
 姉は、住んでいる清津から息子夫妻や末娘らと約30時間列車に揺られて平壌にやって来たという。母が着ていたピンクのカーディガンを渡すとすぐに袖を通し、「お母さんと一緒にいる」と笑った。
 姉は2人きりになったホテルの部屋で、夜遅くまで語り続けた。6男3女の子どものこと。米は高くて買えず、おかゆや雑炊が中心の食生活のこと。息子たち 男性は工場などで働いても給料が出ず、家でニワトリやウサギ、アヒルを飼って市場で売って生計を立てていること。親が日本人ということで子どもが差別され ないように、勤めた工場では懸命に働き、「人間機関車」と呼ばれたこと……。
 「日本人として生まれたからには日本で住みたい」。今となっては実現不可能な言葉に丸山さんは胸が詰まった。
 丸山さん一家は戦中、朝鮮半島の開城で、大きな果樹園を経営。中国側の国境の町で朝鮮人相手の食堂も開いていたという。45年6月末、姉の女学校の卒業のお祝いに、父が姉と当時12歳だった妹を連れて中国・東北部(旧満州)へ旅行に出た。
 8月13日、「明朝帰る」と電報が父から届いた。だが、翌朝、列車は来なかった。その後も父らの消息はわからず、46年冬、丸山さんは母や兄弟と引き揚げ船に乗り、姉たちと離れ離れになった。
 ホテルの部屋で姉は何度も「お母さんに会いたかった」と言った。だが父と妹については、中国から北朝鮮まで戻ってきた後にはぐれたと言うだけで多くを語らなかった。
 姉が生きていることを知ったのは52年。北朝鮮に子どもがいるという女性から連絡があった。母は姉と、互いの無事を確認する程度の内容の手紙をやりとりし、送金して生活を支援した。丸山さんと同居しながら会える日を待ち続けたが、間に合わなかった。
 丸山さんは昨秋、在日本朝鮮人総連合会が祖国訪問していると聞き、問い合わせた。その結果、訪朝団に加えてもらい再会が実現した。
 丸山さんは「早く自由に往来できることを祈るばかり」と語る。「65年離れていても会えば肉親。残された時間はそれほど長くない。困っている姉さんを少しでも援助できれば」。来年は三つ上の兄を無理にでも引っ張っていくつもりだ。
 ◆キーワード
 <北朝鮮の残留邦人> 厚生労働省によると、敗戦の混乱で北朝鮮に残され、家族から未帰還者としての届け出があった人は1440人。このうち43人(9月末現在)が、「戦時死亡宣告」を受けずに現在も消息調査の対象として登録されている。
 【写真説明】
 65年ぶりに再会した丸山毅さんと姉の節子さん。亡くなった母が節子さんとの再会を心待ちにしていたことを報じた新聞のコピーを読みながら、母の話をしたという=北朝鮮・平壌市、丸山毅さん提供