2008/08/16 下野新聞
語り継ぐ夏 とちぎ戦後63年
「お前は本当は日本人なんだよ」
一九七五年、星益英さん(66)=那須町豊原丙=は病に倒れた“母”の枕元で衝撃的な告白を聞いた。
「日本に帰って本当の親を捜しなさい」。涙ながらに言い残して息を引き取った“母”を思うと、今も涙があふれる。「すぐには信じられなかった」
衣類製造業を営む父母、弟妹五人に囲まれ、中国東北部で育った。名前は賀春天。学校卒業後は建設業に従事。六六年には結婚し、中国人として平穏な生活を送っていた。
終戦時は三歳。記憶はまったくない。すべては「日本人」となってから知り得た話だ。
宮城県出身の満州開拓団員星盛(ほしさかり)さんの二男として満州(中国東北部)に生まれた。終戦時の混乱で父と離別。一歳の弟を背負った母も「様子を見てくる」と外出したきり。「多分、撃たれたのだろう」。二歳の妹は「幼すぎる」との理由で毒を飲まされ、集団自決の犠牲となった。
行き場を失った多くの孤児たち。実子を亡くしたばかりの養父は、その中で最も年少の男の子を引き取った。星さんだった。
「養父はとてもいい人だった。でも(自分が)日本人と知ったからには、どうしても本当の両親を知りたくなった」
八一年三月、第一回集団訪日調査団として来日。右もものあざが決め手となり、那須町で農業を営んでいた盛さんと三十五年ぶりの再会を果たす。
中国に残るか、日本に渡るか-。喜びに浸る間もなく難しい選択を迫られ、中国で家族と悩み抜いた。最終的に永住帰国の決断を後押ししたのは「自分は日本人だ」という強い思いだった。
だが、常につきまとう言葉の壁。父子の会話すら通訳なしでは成り立たない。その父も永住帰国の直前に急死。祖国での第二の人生は「頭が真っ白」の状態で始まった。
言葉は今でも苦労している。「日本人なのに日本語が話せない」と力なく笑う。身をもって、その理不尽さを知るだけに、力を込めて訴える。「戦争は絶対にいけない。こんな体験はもう誰にもしてほしくない」
[写真説明]星益英さん
[写真説明]中国残留孤児として初来日し、父親の盛さん(前列左)と再会した星さん(同右)=1981年