昨日の夜、というか朝方3時頃

息子が部屋に入ってきたんです。


「車のキーはどこにある?」と。


私は、そういう時

(あ!今は声をかけないで!)って

すごく強く思って、



ひさしぶりに「あの感覚」が来ました。



頭と体が繋がってないような…

うまく機能していない感覚。



「死んでしまうのでは?」…と。




なんでそうなるのか?は

パニックといえば、そんな感じなのだけど。



今回は「音叉を鳴らして周波数を変えよう」と思い立って

そうしたんです。



そしたら、ほどなく回復して

安堵して休むことが出来ました。




でもね。

「もし、このまま死んだら悔やまれる」って思ったんです。


表面の意識では、「まぁ、ここまで生きられたし」

みたいな気持ちもあったのですよね。



子どもも大きくなって

何も心配ないし。



私がいなくても…と。




でもね、

「悔やまれる」っていう気持ちがあるのに

気がついたんですね。



「護りに入っていた」というか。

安全ばかりを願ってきて


冒険もしなかった。



「この人生では、これをやっていこう」と思ったことさえ

もう無理じゃないのか?


「人の人生には口出しできないんだよ」


「みんなそれぞれ、自分で自分の人生を選んできてる」


「だから、干渉できないし、してはいけないのでは?」って。



あふれんばかりの情熱をもっているのに

ブレーキを踏み続けてる感じ?



こんなに人が死に続けているのに

とっても変な世の中なのに


それもアリなの?



「もっと生きていたかった」


そう言って、予定よりも早く

還らざるを得なかった人たちって

たくさんいるよね?



お年寄りは、ご長寿だったのだから、仕方ない、と

どこかで自分を慰めていたけど


ほんとは、「あれ」があったからだと思ってる。


症状がみんな変なの。



ともちゃんと、そんな話をLINEでしていたからか?



「もっと生きていたかった」という想念と

繋がったのかな?とも、今ふと思ったけど。



「もうご長寿だからいい」なんていうのは

なんという誤魔化し、傲慢なのだと感じた。



お年寄りだって

もっと生きていたかったのだ。



もっとひ孫と触れ合っていたかったのだ。

一日でも多く、家族の中にいたかったのだ。




そんなことを感じて

申し訳なくて涙があふれた。



「傷つかないための予防線」とは

ミスチルの歌詞の中にあったけど



私はそうやって

自分への打撃を和らげていたのだね。




でも、

それは、必要なこと。



「明るいことを考えて」

「好きなことに没頭して」

「ほんとは苦しい胸の内を和らげよう」



それは、私が生きるためには必要なことだし、

こうした世の中だから、なんとか波動をあげることをしよう!



そう思って生きてきた。



それがきっと

私に出来ることではないかと。




でもね。

ちゃんと眼を開けてしっかり見ていないと


真実は見えてこないし

護るべきものを護れなかった、としたら


私は本当に悔やむだろう。




だから、

心は「中庸」からずれないまま


バランスは気を付けながら


本気度は上げていく。




なるべく

ほわほわと、していたかったけど。



こんなにも「変」がまかり通っている…ように見えるのならば

そんな自分を応援してあげよう。



「それを志願してやってきたのだよ」というけれど


ほんと?って思う。



みんなそうなの?


なぜ?



原爆の恐ろしさをみんなにしらせるために

原爆にあうために広島に生まれてくるの?



過去の清算のため?


どこからどこまで、真実?




誰かが言っていた言葉を鵜呑みにせず

自分の感覚で。


感覚は研ぎ澄まし

感度はあげて


しっかりと世の中を見る。



けして、

なかったことにはしないよ、と


思った。





すべてはうまくいっていますコスモス
すべてにありがとうございますコスモス



追記…


そうだった。


今は「大掃除中」だった。

今まで溜まっていたもの、

隠れていたものもいっぺんに表層化しているから。


変なのは当たり前だった。


その中で

どう生き抜いていくかの知恵が必要なのだ。



冷静に

一番いい方法で


大峠を抜けることが出来るよう

祈ります!