どうしたんだい?
 
話してごらんよ。
 
 
 
僕は「人間」でいたこともあるんだよ。
 
「人間」を修行しないと
 
「人間」の気持ちは分からないからね。
 
 
 
 
遠い、遠い昔から
 
何回も何回も「人間」を生きたよ。
 
 
 
 
 
だから、大丈夫
 
よかったら、話を聞かせて。
 
 
きっと気持ちが軽くなるよ。
 
 
 
 
 
僕たち「お地蔵さん」は
 
素敵な伽藍の中の
 
金色の仏さまを選ぶより
 
 
 
こうして野原の中で
 
雨が降ったら濡れて
 
風にも吹かれて立っているのさ。
 
 
 
 
 
緑の葉っぱと暮らして
 
台地の上に立っている。
 
 
 
花は…
 
心の中にいつも咲いているよ。
 
 
 
 
 
 
人間ってさ。
 
むずかしいよね。
 
 
 
 
「そうしたいんだけど
 
そうならない」ってことも
 
 
たくさんあってさ。
 
 
 
 
まっすぐ気持ちを届けようとしても
 
なぜか、途中で曲がっちゃったり
 
 
 
 
 
 
 
うん。
 
わかるよ。
 
 
 
 
 
 
た~くさん
 
た~くさん
 
 
人間を生きて
 
 
 
「怒る」と「悲しい」は似てるって
 
知ることも出来たよ。
 
 
 
 
愛していても
 
なぜかそっぽを向きたくなったりね(笑
 
 
僕もなかなか素直になれなかったりしたよ。
 
 
 
 
 
でもさ。
 
 
人間って変だけど
 
なんか愛しいんだよね。
 
 
 
 
 
 
だから、
 
 
どんな感情を感じていてもいいんだ。
 
 
 
 
キミの
 
どんな思いも
 
 
「人間」を生きてる証さ。
 
 
 
 
 
 
 
それに、
 
 
 
本当のことを
 
僕は知ってるよ。
 
 
 
 
 
キミの中には
 
宇宙があるってことをね。
 
 
 
ブーケ2ブーケ2ブーケ2 ブーケ2ブーケ2ブーケ2 ブーケ2ブーケ2ブーケ2 ブーケ2ブーケ2ブーケ2 ブーケ2ブーケ2ブーケ2 ブーケ2ブーケ2ブーケ2
 
 
 
 
つい、お姑さんに「もう~(# ゚Д゚) !!」っという気を出してしまって。
 
 
 
 
「そんな私でいたくなかった」
 
…って
 
 
思ってね。
 
 
 
 
 
 
でも、無心で作ってるうちに
 
お地蔵様の顏が…
 
 
 
「どうしたの?」っていうお顔になってきたんだよね。
 
 
 
 
 
 
すべてはうまくいっていますコスモス
すべてにありがとうございますコスモス
 
 
 
 
追記しますね!
 
 
 
ずっと書こうと思っていたこと。
 
 
「お地蔵さまと地涌の菩薩について」
 
 
 
 
 「地蔵菩薩・地涌菩薩」


                          23・8・21

本日21日は、弘法大師空海の月命日であり、来年の2月21日まで残り6カ月と成った。

今朝のメッセージは、空海に関係が有るのかどうかは判らないが、「地蔵菩薩・地涌菩薩」と同じ枠内に、二つの菩薩の名前が書かれて現れた。

そして、次に太目で透明なグラスが現れて、其のグラスの中には、美しい水が入っており、溢れ出さない程度に揺れていた。

其れから、多くの横文字の日本語の文章・単語が現れたが、何が書いてあったのか、全然覚えてはいない。

辞典で二つの菩薩の意味を調べると、次の様に載っている。


 

・「地蔵菩薩」じぞうぼさつ、サンスクリット語クシティ・ガルバは、仏教の信仰対象である菩薩の一尊。クシティは「大地」、ガルバは「胎内」「子宮」の意味で、意訳して「地蔵」と言う。また持地、妙憧、無辺心とも訳される。三昧耶形は如意宝珠と幢幡(竿の先に吹き流しを付けた荘厳具)、錫杖。種子(種字)はカ (ha)。
大地が全ての命を育む力を蔵するように、苦悩の人々をその無限の大慈悲の心で包み込み、救う所から名付けられたとされる。一般的には「子供の守り神」として信じられており、よく子供が喜ぶお菓子が供えられている。
 一般的に、親しみを込めて「お地蔵さん」、「お地蔵様」と呼ばれる。


 

・「地涌菩薩」じゆのぼさつ
〔補説〕 法華経(涌出品)釈迦が本門の教えを説いたとき地中から出現した菩薩。過去に釈迦の教化を受け、窮極の真実を実現する菩薩とされ、日蓮宗で重視される。本化(ほんげ)の菩薩。           大辞泉より

 
 
 
(転載ここまで)
 
 
この「地涌の菩薩」のことは
 
私が小さな頃より耳にしていました。
 
 
(…と言うことは、もう50数年前です~~ww)
 
 
 
ここに「本化の菩薩」とありますが
 
対する言葉に「迹化の菩薩」という有名な仏様たちがいますw
 
 
 
地涌の菩薩は
 
最後の最後に出てくる、遥か昔に悟りを得られた仏さまで
 
「凡夫」という姿で娑婆世界に登場されるようです。
 
 
 
崇められることもなく
 
褒められることもなく、
 
 
 
むしろ、無力ともいえる普通の人間として生き、
 
悩みの姿(覚醒していない意識)から、
 
「本当の姿(意識)に戻っていく…
 
 
 
そのプロセスを見せていくことで
 
衆生の気づきを促していく仏様たち。
 
ガンジスの砂の粒よりも多いと言われています。
 
 
 
光の姿を一度忘れる覚悟をして
 
末法と言われる荒み切った世の中に生まれようとする覚悟は
 
「愛と勇気ある魂」…であるからこそ。
 
 
 
私は「お地蔵様」には、今まであまり関心がなかったのですが
 
今回、お地蔵様と出会うことによって「地涌の菩薩」を
 
再び意識することとなりました。
 
 
 
 
ちょっと難しい話になってしまいましたね。
 
 
でも、これも私自身の気づきのお話ですので
 
何かの信念や宗教などをおススメしようとするものではありません。
 
 
 
 
以前、柿田湧水に行ったときに
 
「教えではなく愛のエネルギー」と
 
 
ハッキリ心に伝えられ
 
「あゝ、そうだったのだ」と…。
 
 
 
 
救おうとか
 
教えよう、とかではなく
 
 
ただ、自分が覚醒していくこと。
 
 
縛りをほどいて(今までの価値観を見直して)
 
本当のエネルギーを取り戻していくこと。
 
 
 
それだけで
 
目的はなされていくのかもしれないと
 
今は…思っています。
 
 
 
 
もともと、光だったのだ。
 
 
 
それが真実なのでしょう。