ローマ紀行 2月15日(木) コロッセオ~フォロ・ロマーノ | 子育てミュージシャン・ロンドン日記

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とある中年しかし新米パパ・ミュージシャンの子育て日記 in ロンドン

2018年2月15日(木)

 

 朝8時20分起床。朝食は7時半から10時までなので、急ぎ支度をする。この旅行では、少し成績下降気味のびっきーの算数対策のため、公文の算数ドリルを持参。毎日10分だけ練習をするように仕向けているのだが、この旅行中、一日も欠かさずできた。結構結構。

 

 10時20分頃、宿を出発。出発してすぐ、近くの土産ものの屋台に釘付け、「何でも1ユーロ」に惹かれ物色(結局これはこのあたりの相場だったようだ)。びっきーは自分とアイリス用にピノキオの人形を購入。持ち歩くのが嫌なので一度ホテルへ戻る。こんなことをしているから、なかなか前へ進まないのである。

 

 

 まずは、昨日早速拝観したサンタ・マリア・マジオーレ。

 

 

 この坂を上ると、ミケランジェロによるモーゼ像の、サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会。

 

 

 ローマの松。イタリアカサマツという。そういえば、レスピーギに「ローマの松」という交響作品があったな。なるほどイメージ的にもしっくりくるわい。

 

 

 びっきーがここのところ凝っているのがこの正四面体ルービック・ピラミッド(っていうのか?)。このツアーが終わる頃には、全面揃えるのはほぼ自由自在にできるようになった。

 

 

 昨日と同じルートを経てコロセウムへ向かう。

 

 コロセウムはパラティーノ、チェリオ、エスクィリーノの3つの丘に囲まれた谷の中央部にある。外壁の高さ50メートル、長軸188メートル、短軸156メートルの楕円形。紀元70年頃のウェスパシアヌス帝の時代に着工、80年のティトゥス帝の頃に竣工した。完成当時の式典は100日間にも及んだという。

 

 

 最近はあちこちで見かける路上のスプレー画。皆同じ型抜きを利用して、スプレーで仕上げでいくわけだが、意外と売れているようだった。

 

 

 さて、コロセウム。かつてブルース・リーとチャック・ノリスが激闘を演じた、格闘技ファンの聖地である・・・・ということをびっきーやあさプリンセスに口角泡飛ばしながら説明しても?に決まってるから、ぼそっとつぶやく。ところでこの「コロセウム」だが、いろいろ読んでみると、これはラテン語(あるいは英語もこれに近い発音)なんだってな。イタリア語では「コロッセオ」のようだから、以後は「コロッセオ」で表記する。

 

 

 いよいよ内部へ。コロッセオ(正式には「フラフィウスの円形劇場」)の入場券はもちろんこのスポットでも購入できるのだが、たいがいは人の列であふれかえっているので、少し離れた、フォロ・ロマーノ入り口の発券所で購入せよ、というのが、あさプリンセスとはもう20年来の交流がある元現地ガイドのトシミさんのアドバイス。実際、大して並ぶこともなくチケットが購入できた上、すぐに入場できた。コロッセオのスポットだと、まず持ち物検査をされた上で、チケット購入のための列に並ぶことになるので、ものすごいことになるのだ。今回はトシミさんには大いにお世話になったのであった。

 

 

 今、われわれは地上部にいるのだが、ここから見えるのは地下構造。ここには猛獣狩りのショウのときなどに丘や森などの特別な舞台装置を準備するための設備が置かれていたという。普段は木の板をの上に砂をまいた舞台が設置され、その面積は76mx46m。

 

 

 階段状の観客席は3つのレベルに分かれ、その上の回廊のさらに上に木の階段席と立見席があり、すべてを含めた収容能力は約7万人。各観客席は、入場するときからそれぞれ所属する市民の階層によって厳しく仕切られていたようだが、それでもすべての市民に無料で、公開処刑も含めた各種のエンタテインメントが公開されていた。
  

 

 右に見えるのは、エレベーター。錘を利用して、人間や動物が地下から舞台へ運ばれた。最初にこれを見つけてエレベーターだと言い出したのはびっきーで、なかなか良く見ているわい。

 

 

 そうそう、こんな感じのところをブルース・リーは駆け抜けて行ったのであった。

 

 

 当時は観客席の上には日差しをさえぎる巨大な天幕が張られており、これは帆の扱いに慣れているからということで、ナポリ湾のミセヌム艦隊の水夫によって構成された特殊部隊によって操作されていたという。

 

 

 コロッセオから眺めるコロッセオ広場。中央に見えるのはヴィーナスとローマの女神(あらゆるものを神格化したローマ人は、国家そのものをも女神化した)の神殿跡。紀元135年に竣工したがその後火災で破壊、310年頃マクセンティウス帝によって修復された。ところで、ローマは紀元4世紀のコンスタンティヌス帝の頃からキリスト教化するわけだが、それまではさまざまな神々を奉じる多神教の国で、神は戒律を強いて人間を律する存在ではなく、人間を守護する役目を担っていたという。守護神だから、多ければ多いほど良い?というわけである。この寛容さが(ローマ人は征服民と積極的に融和し「ローマ化」していった・・・宗教の制限がなければそれも難しくはなかったであろう)、ローマを強大化した、というのは塩野七生氏が「ローマ人の物語」のはじめのほうで繰り返し書いておられることである。ただいま再読中。

 

 

 昨夜、ライトアップが美しかった、コンスタンティヌス帝の凱旋門。マクセンティウス帝をミルヴォ橋の戦いで破り、当時分割統治が行われていたローマの再統一を果たした功績を「称えられて」元老院とローマ市民により寄贈された建築物である。もっともその装飾は大部分がその前に造られていたトラヤヌス帝、ハドリアヌス帝、マルクス・アウレリウス帝の建築物から取り外されたものが使用されているという。この頃、ローマの都市としての力はすでに限界に来ていたようで、このコンスタンティヌス帝によって、のちの紀元330年にコンスタンティノープル(現イスタンブール)に遷都された。

 

 

 名残惜しみながら、ようやくコロッセオから脱出。まったくこんなことをしていては、どこも見られないままにローマ滞在が終わってしまう・・・・。

 

 

 このあたりで猛烈に腹が減ってきたので、近場のレストランへ。いやあ、どこで何食っても旨いぞ、ローマは!びっきーは相変わらず、ルービック・ピラミッドを全面揃えるのに余念なし。これは2回目に揃えたときだっただろうか。

 

 

 パパはイタリアにきたら一度はたべないと気が済まぬボロネーズ。

 

 

 あさプリンセスはなんとかいうローマの代表的なパスタ。

 

 

 びっきーは今回初めて、ようやくありついた大好物のカルボナーラ。

 さて、ほっとしたは良いのだが、食事が済んだらすでに3時。われわれはコロッセオになんと3時間近くいたのだった・・・・先を急がねば。

 

 

 さて、フォロ・ロマーノ(英語表記だとRoman Forum)へ入場。共和制から帝政初期に至る古代ローマの都心である。右にあるのはエミリアのバシリカの中央真廊の遺構。画面左隅に見えるレンガ造りの元老院と続いていた。

 このバシリカは、宗教施設ではなく、普段は戸外で行われていた裁判や商取引などが天候の悪い季節には屋内でできるようにするため建てられたいわば公会堂。当時から何度も修理・改築が行われていたが、現在の遺構は紀元前34年に建築されたもののあと。100mx30mの長方形で、上下2層、1階には銀行の店舗が入っていたという。410年に西ゴート族によりローマが略奪された折、このバシリカも火災により消失した。ちなみにエミリアというのは、紀元前179年にバシリカが竣工したときの責任者(マルクス・エミリウス・レピドゥス、「監察官(ケンソル)」-塩野七生氏は「財務官」と訳しており、大蔵省的な存在でもあったという)の名前にちなんでのもの。

 

 どうせ記録を書くのだから、旅行当時、現地の日本語のオーディオ・ガイドなどを利用すれば良かったのだろうが、自由を縛られるような気がしてそれをしなかったものだから、いざ書き始めてみると、写真と記憶、ガイド本を頼りにいろいろ調べているのだが、膨大な時間がかかる。何事も計画立てた準備というものが必要である、と今になってつくづく思う。

 

 

 レンガ造りの建物が元老院。「元老院」なんていうから、老人ばかりの議会のように思い込みがちだが、青~壮~老年とあらゆる世代で構成されていた(30歳から議席を持てた)。共和制ローマでは、王に代わる執政官(2人が元老院議員から)、法務官、会計検察官、財務官、按察官などすべて市民集会(全ローマ市民)によって選ばれるが、元老院議員は選挙によって選ばれるわけではない。能力・人間性・経験などをチェックされて、選ばれたのちは、終身制であった。だから市民集会が国政のトップ機関で、元老院は勧告の権限しかなかった・・・・とは言うものの執政官はこの中から選ばれることからも分かるように、共和制ローマの政治体制は、なかなか興味深いパワーバランスの上に成り立っていたようだ。ところで、終身制の元老院はすぐに動脈硬化を起こしそうだが、全ローマ市民の最大の義務は兵役で、予備役も含めれば60歳までは現役。あちこちで絶えず戦争はあったから、元老院議員も絶えず入れ替わりがあったわけで、なかなか良くできている。

 

 

 右はセプティミウス・セウェルス帝(在位193-211)の凱旋門。202年に帝国の領域をメソポタミアまで広げたことを記念して元老院と市民によって「寄贈」された。

 ローマはすでに共和制の末期頃からの自作農の没落(これはややこしい話で、ローマが勢力範囲を広げるとローマの属州から直接税として入る小麦が、ローマの自作農の生産する小麦に競争で勝つ。さらに戦争のたびに増えていく属州の直轄地から貸し出された耕地に富裕層が投資、奴隷などの安い労働力を使い、家長が1年の兵役を義務付けられているローマ市民自作農はさらに競争に敗れていく・・・・・)により、市民による徴兵制は破綻、膨らむ一方の帝国を支えるため、代わって傭兵制が採られるようになったが、これが常時存在する職業軍人グループを生み、彼らが政治的なパワーを持ち出すようになる。その後、五賢帝の時代を経たのち、天然痘による人口減少も相まって、各地で反乱が頻発、192年にコンモドゥス帝の暗殺があり、一気に政治的に大混乱、5人もの皇帝が次々に擁立、失脚を繰り返し、最終的に勝ち残ったのがこのセプティミウス・セウェルス皇帝。軍事独裁的な政権ながら、めっぽう戦争が上手かったようで、ローマ領の東方を一気に拡大した。とは言えそんな背景もあって、後の軍人皇帝の混乱時代を招く布石となった人物とも評価される。

 凱旋門の左はヴェスパシアヌス帝(在位69-79)の神殿跡。当時の皇帝は死後神格化されるのが慣習だったが、彼はネロ帝の自殺後に起きた内乱を収拾し、帝国を安定させた功績者。ただし元老院による皇帝弾劾権を剥奪したため、後の時代の皇帝暗殺が横行する原因を作ったともいう。コロッセオの建設開始時の皇帝でもある。

 

 

 写真中央の3本柱は、カストルとポルックスの神殿跡。新しく成立した共和制ローマを倒して王に復帰すべく、最後のローマ王がラテン連合と組んで共和制ローマに挑戦した折、双子の騎士がどこからともなく現れ、共和制ローマを勝利に導いたという。当時の市民はこれは、彼らの最高神ジュピター(ギリシアのゼウス)とレダとの間の双子カストルとポルックス(ディオスクローイあるいはジェミニとも呼ばれる)であったと確信し、彼らのために奉納された神殿。紀元前484年完成。ただし現存するのは、紀元6年、2代皇帝ティベリウス帝の時代のもの。基壇部には宝石店や両替商、床屋など、多くの店が連なっていたらしい。また元老院の秘密会談の場所としても使われていたという。自らを神格化することに熱心だったカリギュラ帝(在位37-41)は、この神殿とパラティーノの丘の宮殿を結び、しばしばこの神殿で公衆の前で自ら神を演じたということだ。

 カストルとポルックスの神殿の左にちょこんと小さく白く見えるのはウェスタ神殿跡。ウェスタ(Vesta)は、かまどの女神で、転じて家庭の守護神と考えられた。国家を大規模な家族として捉えるローマ人にとっては、女神ウェスタはそのまま国家の守護神とも考えられ、一説には神体は物ではなく燃え続ける火。これを絶やさぬよう守る巫女たちは、推挙された20人の貴族の娘から抽選で選ばれた6人。処女のまま30年間仕えたが、その間、最高の特権が与えられた。もっとも居眠りをして聖火を絶やしたり、処女のおきてを破ったりすると地下牢にに押し込められ生き埋めの刑に処されたりした。

 その左にあるなにやら屋根がついた小さな建物はカエサル(シーザー)神殿跡。遺体を火葬した場所に、彼の養子で初代の皇帝となったアウグストゥスは神殿を建て、カエサルは神格化された。

 

 

 アントニウス・ファウスティーナ神殿。これはもともとアントニウス・ピウス帝(在位138-161。「ピウス」は「慈悲深い」の意で、元老院から送られた称号)が妃ファウスティーナが亡くなったとき、彼女のために建てた神殿で、皇帝の死後、その功績を称えられて、名前を改められ皇帝自身に寄贈された。ハドリアヌス帝の後を継いだこの皇帝の政治はおおむね善政だったようで、当時力を持ちつつあった軍とも距離を置き、元老院との関係も良好だったという。映画「テルマエ・ロマエ」に登場するローマ皇帝はこの人。

 

 

 円筒形に円蓋の天井、青銅の扉の建物は、最後はコンスタンティヌス帝に敗れるマクセンティウス帝の息子で309年に夭折したロムルス(292?295?-309)を祭ったロムルスの神殿と言われる。

 

 

 ティトゥス帝(在位79-81)の凱旋門。ユダヤ人の反乱を平定した記念のもの。2年間の短い統治期間ながら市民・元老院ともに人気のあった皇帝らしい。彼の時代にヴェスヴィオ火山の噴火、ポンペイの壊滅が起こった。

 

 

 マクセンティウス帝(在位306-312)のバシリカ。分割統治にあった当時のローマ帝国は、結局このマクセンティウス帝との争い(テヴェレ川上流のミルヴォ橋の戦い)に勝ったコンスタンティヌス帝(在位306-312 西方副帝、312-324 西方正帝、324-337 全ローマ)が再統一することになるが、マクセンティウス帝は戦死。当初の計画はコンスタティヌスにより変更、ローマ最大そして最後のバシリカとなった。100mx65m。交差ヴォールトを壁柱の上に載せる様式を用いて真廊の天井は高さ35メートルに達した。後陣にはコンスタンティヌス帝の巨大な大理石像が置かれていた。1349年の地震で交差ヴォールトの天井が落ち、高さ20メートルの柱が1本だけ残ったが、1614年にときのローマ教皇パオロ5世はこれをサンタ・マリア・マジオーレ前の広場に運ばせた。

 

 

 フランチェスカ・ロマーナ教会。もともとはヴィーナスとローマ女神の神殿だった廃墟の跡に850年、教皇レオ4世によりサンタ・マリア・ノヴァ教会が建てられ、1612年の大修復を経て、このサンタ・フランチェスカ・ロマーナ教会となった。

 

 

 昨夜眺めたのとは真逆の方向から、ヴィーナスと女神ローマの神殿跡。

 

 

 

 

 パラティーノの丘から眺めるチルコ・マッシモ(キルクス・マクシムス:Circus Maximus)、直訳すれば「最大の競技場」。実際、最盛期においては全長600m、幅200m、最大収容人数20万人という巨大施設だったらしい。ここで催されたのは戦車競争。映画「ベンハー」のあれ、である。競技場内にはエジプトから持ち帰ったラムセス2世のオベリスクとツトメス3世のオベリスクを2本立て、戦車はこの周りを通常7周して競争した。観客席は3層。しばしば建物が倒壊して多数の死者を出したという。アントニウス・ピウス帝の時代は1112人、ディオクレティアヌス帝には1万3000人・・・・!最後の競技は549年に催されたゴート族の王トティラによるものである。その後は後輩に任せられ大理石は盗まれ、建物は土中に埋没していった。

 

 

 パラティーノの丘のアウグスターナ宮殿(アウグストゥスの宮殿)。噴水と4つの半月形装飾(アマゾネスの盾)のある中庭。

 伝説によれば、ローマの前身アルバロンガ王国の皇女は、父王の死後、王位を簒奪された叔父により巫女とされる。ところが彼女に一目ぼれしいた軍神マルスが彼女が寝ている隙に皇女と愛を交わし、双子が誕生する。叔父国王はこの双子をテヴェレ川に流すのだが、河口近くで引っかかり、これに気づいた狼が彼らに乳を与え生きながらえ、やがて羊飼いによって育てられる。やがてロムルスとレムスと名づけられたこの双子は近隣の羊飼いたちのボスとなり、自分たちの出生の秘密を知ると、徒党を率いて王を殺害する。母は幽閉生活の後にすでに死亡していた。兄弟は手狭なこの地から少し離れたところに新国家を建設することを決める。これが現在のローマだ。ロムルスはパラティーノの丘、レムスはアヴェンティーノの丘を拠点に分割統治を始めるが、やがて仲たがい。境界線争いからロムルスはレムスを殺し、名実ともにロムルスは統一ローマの建設者となる。紀元前753年あるいは754年の4月21日のこととされる。

 このことからも分かるように、パラティーノの丘は古代からローマの中心だったわけだが、初期にはここに勝利の女神のヴィクトリア、最高神ユピテル(ジュピター=ギリシャ神話のゼウス)、マグナ・マーテル(偉大なる母)の3つの神殿が建っていたこと意外はあまり分かっていない。共和制後期には富裕層の住宅地となっていた。紀元前44年にアウグストゥス帝が宮殿をここに移転したのちは、次第に皇帝宮殿の地となり、次々と多くの宮殿がつながってひとつの大宮殿となっていった。そして「パラティーノ」という言葉自体が「パレス」の語源となった。

 

 

 歴代の皇帝により増築、拡大していったアウグスターナ宮殿は公式の行事を行う宮殿のほかに皇帝の私的住居、競技場、浴場などを併せ持ち、丘の斜面から頂まで無数の部屋や階段で覆われた。詩人マルティアーリスにより「世界で最も美しいもの」と称えられ「高き大いなる住まいは7つの丘を重ねたるようにて天にも届かんばかり」と描写された。しかしそれもコンスタンティヌス帝が帝国の首都をビザンティウムに遷都してからは急激に荒廃していった。

 

 

 例によって閉園直前まで長居した後、フォロ・ロマーノをあとにする。ようやくここから離れられると言って喜んでいるのは、今、この文章を書いているパパである。まったくいつになったら終わることができるのだろうかと、危ぶんでいたのである。この部分だけで1週間ほどもかかっているのである。さて、先を急ごう・・・・急いでも時間がかかるとは思うが。

 

 

 パラティーノの丘から下りてきて、昨夜は夜景でのみ眺めたヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂へ。

 

 

 ロケーションから、裏から入るような形になった。

 

 

 先にも書いたが、ヴイットリオ・エマヌエーレ2世はサルディーニャ国王にして初代統一イタリア国王。この記念堂は「アルターレ・デッラ・パトリア」(国父の聖壇)とも呼ばれる。

 

 

 1885年に新古典主義のジュゼッペ・サッコーニの設計により建設が始められ、1911年に落成式、1925年に完成した。右上に見えるのは、クアドリガ(4頭の馬に率いられた戦車)に乗る勝利の女神ヴィクトリア像、2対のうちひとつ。

 

 

 改めて正面に回ってみる。幅135メートル、高さ70mの巨大建築だ。

 

 

 無名戦士の祈念堂でもある。

 

 

 この人が、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世。

 

 

 さて、ここが、カピトリーノの丘。階段を上ると市庁舎と博物館になっているが、訪れることになるのは後日。 

 

 

 今、地図で確認してみると、このあたり一帯をうろうろと行ったり来たり。そうとう無駄足を踏んでいるようにも思えるのだが、ようやくたどり着いたのは「真実の口」。ただしすでに閉館後。

 

 

 結局、目標にしていた駅から大きくそれ、バスに乗って宿へたどり着き、息をつく間もなく近くの地下鉄駅から、次の目的地へ。あさプリンセスの友人で、今回のツアーでは人並みならぬお世話になったトシミ嬢一家との食事会である。疲れ始めたびっきーも、初地下鉄でハッピー。