コントラパッソだ!目には目を、歯には歯を! | この世は舞台、人生は登場

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   ダンテの『神曲』の『地獄篇』には、九つに区分けされた「圏谷(チェルキオ:cerchio)」と呼ばれる地獄が描かれています。その中の第8番目の圏谷の中には「悪の袋(malebolgia)」と呼ばれる十カ所の壕があります。その九番目の濠には、人心を分断して世界に不和をもたらした罪人たちが肉体を二つに切断される責め苦を受けています。その地獄には、世界の信仰を混乱させたために自分の肉体を真二つに裂いて内臓を出している予言者がいました。また、カエサルにルビコン川を渡らせてローマに不和をもたらしたので舌を引き抜かれたクリオ(Gaius Scribonius Curio、紀元前90~49)がいました。さらに、教皇派(グェルフィ党)と皇帝派(ギベリーニ党)との長い戦いの原因を作ったので両手を引き抜かれたモスカ(Mosca de' Lamberti)もいました。そして最後に、ダンテたちはベルトラン・ド・ボルン(Bertran de Born、伊語:Bertram dal Bornio)という亡者に出会いました。彼は、イングランド王ヘンリー2世と彼の四人の息子(子ヘンリー、リチャード、ジェフリー、ジョン)との間に不和を起こさせて、息子たちに父王ヘンリーを殺害させた張本人になりました。そのために、ボルンは胴体から切断された自分の首を携えて近づいて来ました。そして、ボルンは、別れ際に次のように叫びました。

 

 

   私は、結ばれていた人々を仲違いさせてしまったので、哀れにも私の頭部を胴体から切り離して持ち運んでいる。この胴の部分はこの(頭部)の幹になっているのだ。まさしく「コントラパッソの法則」が私の中で遵守されているのだ。(『地獄篇』第28歌139~142、筆者訳)

〔原文解析〕

 

 

   上の詩行で分かるように、『地獄篇』第28歌は、「コントラパッソcontrapasso)」という言葉で閉じられています。日本語訳では「因果応報」と訳されることが多いようですが、その意味は「他人に加えたのと同じ刑罰を自らも受ける」という意味です。法律用語では、「同害報復法」と呼ばれています。『神曲』の『地獄篇』において、地獄に堕ちた亡者たちが受けている刑罰は、「コントラパッソの法則」によって、現世で犯した罪業の種類と重さに応じた拷問を永遠に受け続けています。また、煉獄にいる霊魂たちも、現世で犯した罪に相応の罰則を受けます。しかし、地獄と異なる点は、煉獄の拷問は浄罪の苦しみなので、いつの日か必ず許される時が来ることです。

 

 

 

 

   その「コントラパッソ」という言葉は、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』の中で使われていた「アンティペポントス:antipeponthos」というギリシア語を、ラテン語に訳して使うために中世時代(1250年頃)に作られた造語です。すでに、トマス・アクィナス(Thomas Aquinas:1225 – 1274)は彼の『神学大全』の中で、その用語を次のように使っています。

 

〔直訳〕

   コントラパッスムは、先に起こった行為の苦痛と同じ苦痛の償いを生じさせることを言う。

 

 

   さらに、ラテン語になった「コントラパッスム:contrapassum」という用語は、聖書と法学の「同害報復法 (lex talionis)」と同じ意味で使われるようになりました。その同害報復法とは、旧約の『出エジプト記』の第21章で、神がモーセに告げた次の有名な法則のことです。

 

   命には命を、目には目を、歯には歯を、手には手を、足には足を、焼き傷には焼き傷を、傷には傷を、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならい。」(23~25)

 

   さらに、旧約聖書の『レビ記』第24章にも次のようなコントラパッソの個所があります。

 

   もし人が隣人に傷を負わせるなら、その人は自分がしたように自分にされなければならない。すなわち、骨折には骨折、目には目、歯には歯をもって、人に傷を負わせたように、自分にもされなければならない。獣を撃ち殺した者はそれを償い、人を撃ち殺した者は殺されなければならない。(19―21)

 

 

   この旧約聖書の言葉には人を救済する要素はありません。それゆえに、ダンテは「コントラパッソ」という言葉を、前出の『地獄篇』の第28歌を閉じる最後尾で一度使っているだけです。ダンテが描く地獄の亡者たちは、この世で生存中に犯した罪の重さと種類を厳格に分類されて、それぞれの適切な刑罰の場所に閉じ込められているのです。まさしく、現世において大食漢だった者は大食漢の地獄へ、窃盗をしたものは窃盗の地獄へ堕ちて、それ相応の刑罰を受けているのです。それは「目には目を」理論と同じなのです。ダンテの地獄には微塵の温情も存在しないのです。『神曲』に描かれた地獄は、まさしく情け容赦のない「目には目を歯には歯を(oculum pro oculo dentem pro dente)」の世界なのです。

   法律の世界の「同害報復法 (lex talionis)」は、本来は「目を潰されたら相手の目を潰しても良い」という意味ではなく、目を潰されたら「目しか潰してはいけない、(命まで奪うなどということは許されない)」という法則だと解釈されています。ということは、命を奪った者は命で償う以外にはないということにもなります。一方、死刑を廃止するという意見も多く、実際に死刑廃止を法律化している国もあります。その根拠には冤罪の可能性を完全に避けることにあるようです。しかし、冤罪の可能性を完全に避けることができれば、「命には命を」というコントラパッソは正しいということになります。

 

 

コントラパッソの禁止

 

    コントラパッソの世界は、旧約聖書の厳格な世界だと言えます。しかし、前述したように、『煉獄篇』では、厳しい刑罰の中にも、必ず救済があります。新約聖書では、イエスは「コントラパッソ」を禁じています。『マタイによる福音書』の第5章で、イエスは次のように説いています。

 

 

   『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。求める者には与え、借りようとする者を断るな。『隣人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。 (『マタイによる福音書』第5章38~48)

 

   ローマ帝国とその傀儡政権であるヘロデ党に全面対決を挑んだ過激派のユダヤ国粋主義者よりもイエスが率いるユダヤ教ナザレ派は穏健だったようです。それゆえに、イエス・ナザレ派は旧約聖書に対しても、ある面においては批判的姿勢をとっていたのでしょう。旧約が主張するコントラパッソの法則を否定するのは、旧約の思想と一線を画そうとする姿勢の表れだと言えるのではないでしょうか。すなわち、イエスは「目を傷つけられたら、相手の目を傷つけても良い」というコントラパッソの法則を否定して、「右の頬を打たれたら、左の頬も打たせてやれ」と説いています。また、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」とも説いています。極言すれば、「殺人者も許せ」という意味にもなります。イエスの言動を記録した『福音書』の中の十字架刑の記述は、二つに大別することができます。イエスの最期の言葉は『マタイ伝』と『マルコ伝』では、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と、父なる神への弱音に聞こえる言葉で終わっています。しかし、『ルカ伝』だけは、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」と言っています。その言葉は、まさしく「汝の敵を愛せよ」という反コントラパッソの博愛の言葉です。コントラパッソに準じて「敵を倒すのか」、それとも反コントラパッソを信じて「敵を愛するのか」、私には判断できません。それゆえに、死刑は必要なのか、それとも死刑は廃止すべきなのか、私は判断しません。