『神曲』煉獄登山35.天使の翼の力 | この世は舞台、人生は登場

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環道の関所を通過する儀式

 

   ダンテがウェルギリウスに先導されて次の第5環道へ抜ける道を探して歩いていると、次のような道を教える声がしました。

 

 

グスターヴ・ドレ作

 

   その時、「ここに道があるぞ、ここへ来い」というさわやかな、優しい、人の世では聞くことができかねるような声が聞こえた。 (『煉獄篇』第19歌43~45、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

するとその時、「来なさい、ここに道が切り開かれているよ」と、甘美で慈愛にあふれた口調で話すのを私は聞いた。それは、こちらの死すべき領域では聞かれることのないものでした。

 

   『神曲』は、ダンテが冥界訪問から無事帰還して、それを回想しながら書き留めている、という場面設定になっています。それゆえに、登場人物の言葉(すなわち直接話法)は現在形で記述されることが多く、情景描写および状況説明の文章は、基本的には過去時制が多く使われています。ダンテが「甘美で慈愛に満ちた言い方で話す(parlare in modo soave e benigno)」天使の言葉を聞いたと言っているのは、「こちらの死すべき区域(questa mortale marca)」に帰って来てから後のことなのです。まず、ここで再度、『神曲』を描くために使われている世界を確認しておきましょう。

 

 

   『神曲』の世界は、「地獄」と「煉獄」と「天国」だけではありません。常に「現世」という四つ目の場所が存在しています。その四つの世界の中で「天国」を除いた三つの世界は、地球に存在していて、「煉獄」と「現世」がその表面で、「地獄」がその内部に存在しています。さらに、「現世」は北半球に位置していて、その中心にエルサレムがあります。そして、そのエルサレムと対称をなす南半球の位置に「煉獄」島が聳えています。それゆえに、「現世」と「煉獄」は、同じ時間体系を共有しているのです。いうまでもなく、「こちらの死すべき領域(mortale marca)煉獄19歌45」とは地球上の「現世」の部分で、「地獄」と「天国」は「永遠の場所((loco eterno)」と呼ぶことができます。では、「煉獄」はといえば、私の個人的な見解ですが、天国への「通過の場所(loco passante)」と呼ぶことができるでしょう。ダンテは、「現世」では聞かれることのないような「甘美で慈愛に満ちた言い方」であったと、現世に帰ってから煉獄を回想して言っているのです。

 

 

甘美で慈愛に満ちた声の持ち主

 

   第4環道の境では、魔女セイレンの誘惑からダンテを救った聖女(donna santa)の印象がまだ鮮明に残っています。それゆえに、この新たな登場人物が、この世では聞かれないような「甘美で慈愛に満ちた口調(modo soave e benigno)」で話しかけてきたとしても、即座に天使だと認知することはできないでしょう。しかし、次ぎの詩節に進むと、ようやく天使であることが判明します。その登場人物はダンテたちに対して、次のような仕草で指示を出しました。

 

   そして白鳥のように羽をひろげ、堅い巌(いわお)の壁と壁の間を上を指して進むよう〔天使が〕私たちに話しかけた。 (『煉獄篇』第19歌46~48、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   白鳥のもののように見える広げられた翼で(=白鳥のような翼をひろげて)、そのように私たちに話しかけたところの男の人は、私たちを上の方へ向けた。堅い岩石の二つの壁の間の上の方へ私たち(の注意)を向けた。

 

 

   上の詩節の中には、直接に「天使」を明示する語句はありません。関係代名詞とその先行詞「・・・するところの男(colui che)」が男性形であることは、ダンテに道を示した登場人物が、彼を悪夢から目覚めさせた「聖女」ではないことを明らかにしています。そして「白鳥のもののように見える翼(l’ali che parean di cigno)」という詩句によって、それが天使であることを認識します。神は、陸の生き物海の生き物空の生き物を創造しましたが、その中で上級創造物といえば人間天使です。そして、その両者の外見上の特徴は、翼を持つのが天使で、持たないのが人間であるということです。悪魔と呼ばれている創造物も、もともとは天使だったので翼を持っています。私の推測が正しければ、人間は神の似姿に創られたがために翼を持つことがなかったのでしょう。それゆえに、人型創造物の中で翼は天使であることの象徴なので、「白鳥の翼のようなもの」を持つ存在といえば、「天使」を連想するのが自然なのです。

私のブログ「地獄巡り39.天使と悪魔」を参照。

 

煉獄の八人の守護天使

 

   煉獄の七つの環道の出口には関所のようなものが設けられていて、そこを通行するとき守護天使の認可と祝福が必要です。そして、七つの環道の七人の天使に加えて、煉獄本域の入口にあたる煉獄門にも門衛天使がいるので、八名の天使によって管理されているということになります。私のブログ「煉獄登山21.傲慢の罪の浄化完了」の中で、天使の衣装について詳しく言及しましたが、ここでは、天使の「翼」に焦点を当てて煉獄全体を眺めてみることにします。

 

第1環道の関所の天使

 

   巡礼者ダンテは、第1環道で傲慢の罪を浄化し終えて、煉獄滞在の二日目の昼頃に、その出口の関所に差し掛かったとき、先達ウェルギリウスが次のように叫びました。

 

見よ、あそこに天使が一人私たちの方へ、いま来ようとしている。 (『煉獄篇』第12歌79~90、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   向こうの方で、私たちの方へ来るために準備をしている一人の天使を見よ。

 

   すると、その天使は、次のような姿をしているのがわかりました。

 

   私たちをさして白い服を着た美しい人が近づいて来た。その表情は輝いて、まるで明け方の星のようにきらめいて見えた。 (『煉獄篇』第12歌88~90、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   美しい神の被造物が、白い衣をまとい、早朝の星が揺らめくように見える表情をして、私たちの方へやって来つつあった。

 

   さらに、その天使は、腕の翼を広げて次のように呼び掛けました。

 

   腕をひろげ、ついで翼をひろげて、いった、「ここへ来るがよい、階段はこの近くだ、これからは身の心も軽く登れる。 (『煉獄篇』第12歌91~93、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   彼は両腕を広げ、そしてそれから翼を広げた。そして言った。「来なさい、ここの近くに階段がある。そして今後は、容易に上ることになる。

 

   そして、いよいよ、これから先のすべての環道の出口で行われる儀式が、次のように描かれています。

 

   私たちを岩のえぐられた場所へ連れて行くと、そこで翼でもって私の額をはたき、それがすむと旅路の安全を保証してくれた。(『煉獄篇』第12歌97~99、平川祐弘訳) 

〔原文解析〕

〔直訳〕

   岩が裂かれた所へ私たちを連れて行った。その時、私に対して額に沿って翼を打ちつけた。その後で、彼は私に安全な旅を保証した。

 

   上の場面で、「額に翼を打ちつける(battere l’ali per la fronte)」という天使の行為は、煉獄の中で行われる最も重要な儀式です。そして、その儀式とは、煉獄門の所で門衛天使から額に刻まれた七つの「P」の文字を、環道ごとに一文字ずつ消すことです。では、それらの文字がダンテの額に刻まれた時の煉獄門の様子を見ておきましょう。前回のブログ「煉獄登山34.神曲の聖数3」でも言及しましたように、ダンテが三度自分自身の胸を叩いて、門を通過することを請願しますと、天使はその許可を出しました。その模様は次のように描かれています。

 

 

   恭々しく私は天使の足もとにひれふして、門を私のために開いてくださるよう慈悲を乞い、まず三たび私の胸を叩いた。天使は私の額に剣の先で七つPの文字を記した。そしていった、「中にはいったならば、この傷を洗い落とすよう心がけろ」 (『煉獄篇』第9歌109~114、平川祐弘訳)

〔直訳〕

   敬虔に、私はその聖人の足に身をゆだねた。私は慈悲と、彼が私に(門を)開けてくれるのを請い願った。まず、私は三回、私に胸に(=私自身の胸に)打撃を与えた。すると、彼は、剣の切っ先で私の額に七つのPを描いた。そして、「(煉獄の)内部にいる時は、これらの切り傷を償い浄めるように努力せよ」と彼は言った。

 

 

 

   以上のように、煉獄門のところで刻まれた七つの「P」のうちの一つが、第1環道の関所で、「額に翼を打ちつけて(煉獄篇12歌98)」消されました。その時、天使は「今後は、登ることが容易になる(agevolemente omai si sale)煉獄篇12歌93」と言いました。それでは、7文字の中の1文字が消えただけで、なぜ「登ることが容易になる」のでしょうか。分かり易く言い換えれば、「傲慢の罪」が浄化されただけで、なぜ、他の六つの罪まで軽くなるのでしょうか。その答は、その関所を出る時にウェルギリウスから次のように説明されています。

 

   だいぶ薄れたがそれでもおまえの額にはまだPの字が残っている、一つはいま消えたが、残りの文字も同じように消えれば、善意がおまえの足にうち克ち、足はもはや疲労をまったく覚えなくなり、前へ前へと進むのが楽しみとなるだろう。 (『煉獄篇』第12歌121~126、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   君の顔面にはまだなお残されているPが、ほとんど色落ちして、一つのPがそうなっている(=消えている)のと同じ様に、完全に削ぎ落とされるであろう時、君の足は、善の意志によって打ち負かされるであろうために、苦労を感じないだけでなく、また上へ急き立てられることが、それら(=足)にとって喜びとなるであろう。

〔解説訳〕

   君の顔の額には、まだ「嫉妬」、「憤怒」、「怠惰」、「貪欲」、「美食」そして「色欲」も六つのP文字が残っているが、それらの文字も(stintiが複数形なので)すべての文字がみな色落ちしている。そして、「傲慢の罪」のP文字がいま消えたのと同じ様に、他のP文字も消えるであろうが、そうなるに従って、善に向かう意志が足の疲労に打ち勝つようになる。そうなると、上に登ることが、疲れた足にも喜びとなる。

 

   上の詩行は難解なので、いろいろな解釈も可能だと思われます。その中で最も問題視すべき箇所は、「残されているP文字の色も薄れている(i P che son rimasi ・・・ stinti)」という文言です。その解釈としては、傲慢の罪を含意するP文字が消失すると、他の罪業を意味する六つのP文字も色が薄れた、とするのが通説のようです。その根拠は、トマス・アクィナスの『神学大全』の「傲慢は他の罪が重くなる原因である (原文解析は下に添付)」という思想です。すなわち、「傲慢」は、あらゆる罪業の基盤になっているために、その罪業が浄化され消失すれば、他の六つの罪の重さも多少は軽減する、と考えられるのです。

 

 

第2環道の関所の天使

 

   煉獄門で門衛天使によって、ダンテの額に刻まれた七つの「P」の文字は、第1環道で傲慢の罪業を浄化し終えたとき、守護天使が現れて、「額を翼でたたいて一つの「P」を消しました。そして、第2環道で嫉妬の罪業を浄化したとき、やはり守護天使が現れましたので、額の「P」字を消す儀式が行われたはずです。ところが、その環道では、文字の消える場面は叙述されてはおりません。しかしその代わり、ウェルギリウスの次の言葉が天使の行為を暗示しています。

 

   さあ、もう二つの傷は消えたから、他の五つも早く消えるよう努めるがいい、苦しんではじめてふさがる傷の口だ。(『煉獄篇』第15歌 79~81、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   すでに二つの傷がそうなっている(=消されている)ので、五つの傷も早く消されるように、常に努めなさい。それは、痛みを感じることによってふさがるものだ。

 

   煉獄門で天使によって付けられた「P」の文字は、「罪(Peccato)」の頭文字でした。しかし、ここの箇所では「ピアーガ(piaga)」と呼んでいますので、頭文字「P」は、「罪」と「傷」の二つの意味を合成した言葉であったことが判明します。確かに、煉獄門で付けられた「P」文字は、筆で書かれたのではなく、「彼(天使)は、剣の切っ先で、私に対して額の中に七つの「P」文字を画いた (『煉獄篇』第9歌112~113)」と表現されているように、剣で刻まれたものです。

 

第3環道の関所の天使

 

   巡礼者ダンテが第3環道の出口に着いたのは、煉獄滞在二日目の夕方でした。第3環道には、「憤怒の罪(peccato di ira)」から噴出される「湿りを帯びた濃霧(i vapori umidi e spessi)煉獄篇17歌4 」が立ち込めていました。その暗黒の濃霧は、目に「とても粗い剛毛で擦る感触(a sentir di così aspro pelo)煉獄篇16歌6」を与えるほど厳しいものでした。しかし、その環道の出口に近づくと、すなわち憤怒の罪が浄化されると、霧も晴れて夕陽の光線が射し込んできました。そして、まだダンテの目が明るさに慣れないでいるとき、守護天使が登場しますが、その場面は次のように描写されています。

 

   私は自分がどこにいるのか場所を見定めようとして、後ろを振り向いた時、「ここで上へ登る」という声がした、するとほかの気持ちが私から失せて、その声の持ち主が何者であるかを知りたいという望みが強く湧きあがった、その顔を見なければおさまらないような気持ちだった。しかし太陽を仰ぎ見ると、光が横溢(おういつ)して姿が見えず、目を伏せないではいられないように、ここでも私の力では見ることはできなかった。 (『煉獄篇』第17歌46~54、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   私は、私がいた所を調べるために振り返ったその時、ある声が「ここで登れ」と言った。それ(=その声)は、私をあらゆる他の気にかけるものから取り去ってしまった。話していたところの人が誰であるのかを非常に強く願う欲求を(その声は)引き起こしたので、(私の欲求は)もう一度出会いたいということの他は、決して休むことはない。しかし、私たちの視力に重圧を加え、過度(の光)が原因でそれ自体の姿を覆い隠すところの太陽に対面する時のように、あそこであの時、私の(視るという)能力は不足していた。

 

   ダンテが第3環道を蔽っていた「憤怒の濃霧(i vapori spessi di ira)」から脱出できたのは、太陽が沈みかけた時刻でした。そして、環道の出口に近づいた時、「ここで登れ」という天使の声が聞こえました。そして、その声の主を確認したいという欲求に駆られて凝視しましたが、天使の発する光が強くて、その姿を見ることができませんでした。巡礼者ダンテは、この第3環道以外の関所でも、天使の姿が眩しすぎて肉眼では見ることができないことがあります。たとえば、この先の第6環道の天使なども強い光照のために肉眼ではその姿を見ることができません。この第3環道では、巡礼者は暗黒の濃霧の中を通ってきていますので、余計に眩しさを感じるのです。それでも、そこの天使の具体的な姿を確認しようとしていると、ウェルギリウスが次のように教示します。

 

   これは天の霊だ、私たちが別にお頼みしなくとも、上へ通じる道へ私たちを導いてくださる、御自分の姿は御自分の光で隠しておいでだ。(『煉獄篇』第17歌55~57、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   この人は神の霊である。その人は、懇願しなくても、上へ行くための道の中へ私たちを向かわせてくれる。そして、(その人は)彼の出す光で彼自身を隠している。

 

   ウェルギリウスは、「神の霊(divino spirito)」と呼んでしますが、天使であることは疑う余地はありません。そして、その天使が取った行為は、次のように描写されています。

 

   私たちは歩を転じて石段の方へ向かった。そして第一段へ足をかけた時、すぐかたわらに鳥の羽搏(はばた)きに似たあおりを顔に受けた、「幸なるかな悪しき怒りなく、和平を求むる者は」 (『煉獄篇』第17歌 64~69、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   私は、彼(ウェルギリウス)と共に、私たちはある階段の方へ歩みを向けた。そして、私が第1段目に到達するや否や、まるで翼の羽ばたきのようなものを近くに感じた。そして、私の顔面に風を吹きかけて次のように言うのを感じた。

「平和をもたらす者たちは祝福される、なぜならば、その者たちは悪い怒りを持たないから。」

 

   ダンテには、天使の姿が眩しすぎて視ることができませんでしたが、顔の前で「翼の羽ばたき(un muover d’ala)」と「顔面で風の吹きかけ(ventarmi nel viso)」だけは感じました。それは、まさしく天使がダンテの額のP文字を消す行為に他なりません。その第3環道の関所を通過した時には、ダンテの額にはまだ四つのPが残っていることになります。

 

第4環道の関所

 

   第4環道の関所の模様は、このブログの最初に言及しました。そこの関所に登場する天使も、「白鳥の翼(l'ali di cigno)煉獄篇19歌46」という文言によって暗示されているだけですが、読者はそれが天使であることを疑いません。それゆえに、次のような天使の所作の意味は即座に理解されます。

 

   それから翼を動かして私たちに風を送ると「幸なるかな悲しむ者」と叫んだ、「その人々の魂は慰めを得ん」 (『煉獄篇』第19歌49~51、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   それから、彼は羽を動かして、私たちを扇いだ。それから「悲しむ者は」至福である、なぜならば、その魂は慰めの淑女を持つであろうからだ、とはっきりと言っていた。

 

   ここでもまた、天使は「羽を動かして私たちを扇ぐ(mosse le penne e ventilonne)」という仕草をします。そして、注意深い読者であれば、それまでの三つの環道の時と同様に、額のP文字を消す行為であることを即座に理解できます。

 

 

第5環道の関所

 

   第5環道だけは、関所の通過場面の描写はありません。関所を通過してしばらく経ってから回想して、次のように描写しています。

 

   私の額から罪の文字を一字消して、私たちを第六の圏へ送りこんだ天使は、はや私たちの後ろはるかとなった。その天使は私たちに「幸なるかな義を求め義に渇く者は」といったが、その言葉は「義に渇く者は」で止み、そのほかはいわなかった。 (『煉獄篇』第22歌1~6、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   天使はすでに私たちのまったく後方にいる状態になっていた。(その天使とは、私の)顔から一筆(の文字)を剃り落としてから、私たちを六番目の環道へ向かわせた天使のことである。そして、正義に対して彼らの欲求を持つ(=正義を求める願望を持つ)者たちは、至福の人たちである。そして彼(=天使)は、「渇いている」と言う以外に他のこと(=言葉)は無く、そのこと(=言葉)で終わった。

 

   守護天使による関所の通過儀式の場面を省略して、回想形式で描いたダンテの意図およびその詩的効果や意義に関しては、定説がないようです。その直前にウェルギリウスとスタティウスの感動的な出会いの場面がありますので、その状態を継続させるために、守護天使による通過儀式の描写を省略した、とする意見もあります。「一筆(のP)を剃り落とす(un colpo raso)」という文言だけで、天使が翼で扇いで罪の文字を消す姿を連想することが、読者には求められています。因みに、天使が発した一言「渇いている(sitiunt)」は、『マタイによる福音書』(第5章3~12)の「八つの幸福(Beatitudes)」について説かれた「山上の説法(Sermone Domini in monte)」の中の「第4福」の一節です。その『説法』のラテン語の全文は、文末に添付してあります。また、私のブログ「煉獄登山21」、「煉獄登山28」、「煉獄登山29」でも言及してあります。

 

第6環道の関所

 

   第6環道の関所の守護天使が登場する場面にも「天使(angelo)」という言葉は使われてはいません。しかし、この環道まで共に旅をしてきた読者には、天使の存在を感じ取るには十分な描写になっています。しかも、それぞれ七箇所の環道を守護する天使の中で、第6環道の天使の姿は、最も美しく描写されています。その箇所は、直喩法を用いて次のように叙述されています。

 

   その姿を仰ぎ見るとまぶしさに眼が眩(くら)んだ、私はそれで、声をたよりに進む人のように、先生の後ろの方へ身を振り向けた。すると曙を告げる五月のそよ風が、草花のかおりに満ちあふれて、かんばしくあたり一面にそよぐように、風が私の額の真中に吹きよせて、羽が動くのがはっきりと感じられ、そこからかぐわしい大気がただようのだった。 (『煉獄篇』第24歌 142~150、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   彼の姿は私から視力を奪ってしまっていた。それゆえに、私は、私の師匠たちの背後に回った。それはちょうど、耳を傾ける方に向かって進む人のようであった。

曙の告知者(夜明けを告げる)五月のそよ風は、揺れ動いて良い匂いを出して、牧草と花々にすっかり満たされる。ちょうどそのように、私自身、一陣の風が額の真ん中に当たっているのを感じた。そして、翼が動くのをとてもはっきりと感じた。その翼は神の芳香のそよ風を感じさせた。

 

   この第6環道の関所でも、天使の姿は眩しすぎて人間の肉眼では見ることができませんでした。しかし、ここの場面では、それまでの関所の描写にはなかった自然の美しいイメージがあります。清々しい「五月のそよ風が芳しい匂いを出し(l’aura di Maggio olezza)」、そして地面は「緑の牧草と美しい花々で満ちている(impregnata da l’erba e da’fiori)」光景は、第6環道以前の煉獄には存在しなかった自然の明るさです。そして、額のP文字を消す天使の翼からも「神の芳香を発するそよ風(l’orezza d’ambrosia)」が出ていました。その「そよ風(auraとorezza)」は、煉獄で発生しているものではなく、エデンから漂い降りてくる「エデンの余り風」だと、私は解釈しています。すなわち、煉獄巡礼者たちにエデンが近づいていることを知らせているのではないでしょうか。確かに、エデンに着けば、同じような光景に出会うことになります。

 

第7環道の関所

 

   さて、いよいよ最後の浄罪の場は煉獄第7環道です。第5環道の出口から同伴したスタティウスと共に第6環道の美食の罪を浄化して、第7環道に足を踏み入れます。そして、好色の罪を浄化した後、最後の苦難の場に到着します。そこは情欲の炎を浄罪の炎で焼き尽くす場所でした。そして、ダンテが、恐怖のあまりに、その烈火をくぐることを躊躇していた時、次のように、天使が登場してダンテを励まします。

 

   その時神の天使がにこやかに眼の前に現れた。天使は炎の外、道の端に立って私たちよりはるかに甲高い声で歌った、「心の清き者は幸いなり。」そして私たちが近づくとこう話した、「この火に咬まれぬうちは、先へ行くことはならぬ。聖き魂よ、この中へ入れ、彼方から響きわたる歌声に耳を傾けよ。」 (『煉獄篇』第27歌 6~13、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   そのような時、神の喜ばしい御使いが私たちに現れた。炎の外側の土手の上に(天使は)いた。そして、「心清らかならば祝福される」と、私たちの声よりもさらに生き生きとした声で歌っていた。それに続いて、「もし、聖なる霊魂たちよ、はじめに、この火が噛まないならば、何人も更に(先へ)進むべからず。それ(火)の中へ入れ。そして向こう側から歌っている声に聞く気のない状態であってはならない。」と、私たちが彼(=天使)の近くに行くや否や、彼は私たちに言った。

 

   この箇所では「神の喜ばしい御使い(l’angel di Dio lieto)」と呼ばれた守護天使は、例のごとく「イエスによる山の上の説法」の一節を唱えました。ここでは、好色・淫乱と対立する清純を讃えて、その説法の第6福目の「こころ清らかならば祝福される(全文は文末に添付)」とラテン語で歌いました。そして、火炎の中に入ることを怖がるダンテたちを激励しました。その時点までは、これまでの六つの環道関所の守護天使たちと同じ「所定の行動」でした。ところが、第7環道の天使だけは《翼で額を扇いでP文字を消す》儀式がありません。

 

最後のP文字はいつ消えたのか?

 

   「色欲」を象徴する最後の「P文字」も、必ずエデンに入るまでには消えているはずです。第7環道の烈火を通り過ぎるとき、その火炎で焼失したと考えることができます。しかし、私個人は、次のエデンの園の描写の中にその手がかりが隠されているように感じています。

 

   さわやかな緑濃い神の林が、新しい日の光を見た目にも優しくやわらげていた。この深林(しんりん)の内や外を歩きたいという気分にはや誘われて、先生の言葉をそれ以上待たずに、この土手を離れると、私は野原をゆっくりとゆっくりと歩きはじめた、足もとからはいたる処にふくよかな薫(かおり)が漂ってきた。こころよいそよ風が、たえずやわらかに吹き、さわやかな力で額を軽やかに打った。(『煉獄篇』第28歌1~9、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   新しい日光を眼に馴染ませるところの、密に茂り緑あざやかな神聖な森のその内部や周囲を、いま探索することを熱望したので、もうこれ以上、じっとしてはおられずに、土手を後にした。そして、至る所から芳香を放っていた地面を横切って、ゆっくりと田園の道を進んだ。甘いそよ風は、それ自体では変化をすることはなく(=強くなったり弱くなったりすることはない=常に同じ強さで吹く)甘美な風よりも強くはない叩き方(=せいぜい甘美は風ほどの優しい叩き方)で私の額の付近を叩いていた。

 

   巡礼者ダンテは、第7環道の出口付近で煉獄滞在の三日目の夜を過ごします。そして、煉獄四日目の朝、その美しさに魅了されて、楽園に足を踏み入れます。上に引用した詩行は、最初に見たエデンの光景です。第6環道の出口付近で吹いていた「草花で満たされ、神の芳香によって良い香りを発する五月のそよ風」は、このエデンの園から吹いて行った「余り風」だったと解釈することができます。さらに、「甘いそよ風が私の額の付近を叩いていた(un’aura dolce  mi feria per la fronte)」というその時こそ、ダンテの額に刻まれていた7番目の「P文字」が消された時だと、私は確信しています。エデンの楽園は、私のブログはその場所に辿り着いたとき、詳しく探索することにしましょう。

 

イエスによる山上の説法(『マタイによる福音書』第5章1~12)