ミルトンがギリシア語で書いた作品:旧約聖書『詩篇114番』 | この世は舞台、人生は登場

この世は舞台、人生は登場

ブログの説明を入力します。

詩篇114番とは

 

   ミルトンの小品だけのギリシア詩の中で唯一文学作品の形態を整えているのは『詩篇114番』で、旧約聖書の同題の詩歌から題材を取って書かれたものです。『詩篇114番』といえば、旧約の『出エジプト』とイスラエルの選民を歌った有名な詩歌です。ミルトンの作品を見る前に、ルネサンス以後に流布している重要な聖書の中に収められたその詩歌を一通り見ておきましょう。

 

日本聖書協会訳

1.  イスラエルがエジプトをいで、ヤコブの家が異言の民を離れたとき、

2.  ユダは主の聖所となり、イスラエルは主の所領となった。

3.  海はこれを見て逃げ、ヨルダンはうしろに退き、

4.  山は雄羊のように踊り、小山は小羊のように踊った。

5.  海よ、おまえはどうして逃げるのか、ヨルダンよ、おまえはどうしてうしろに退くのか。

6.  山よ、おまえたちはどうして雄羊のように踊るのか、小山よ、おまえたちはどうして小羊のように踊るのか。

7.  地よ、主のみ前におののけ、ヤコブの神のみ前におののけ。

8.  主は岩を池に変らせ、石を泉に変らせられた。

 

欽定訳聖書: King James Version

1・ When Israel went out of Egypt, the house of Jacob from a people of strange language;

2・ Judah was his sanctuary, and Israel his dominion.

3・ The sea saw it, and fled: Jordan was driven back.

4・ The mountains skipped like rams, and the little hills like lambs.

5・ What ailed thee, O thou sea, that thou fleddest? thou Jordan, that thou wast driven back?

6・ Ye mountains, that ye skipped like rams; and ye little hills, like lambs?

7・ Tremble, thou earth, at the presence of the Lord, at the presence of the God of Jacob;

8・ Which turned the rock into a standing water, the flint into a fountain of waters.

 

『セプトゥアギンタ』の詩篇113番

 

   ミルトンのギリシア語による『詩篇114』を見る前に、さらに時代を遡って古代の聖書を見ておきましょう。ヘブライ語原典まで遡る能力は私にはありませんので、すでに紀元前3世紀ごろから翻訳が開始されたと言われていますギリシア語の『七十人訳聖書(セプトゥアギンタ:Septuaginta)』を原典で見ておきましょう。ただし、近年の旧約聖書「詩篇114番」は、そのギリシア語聖書では「詩篇113番」になっています。

 

    ハレルヤ(神を誉め称えよ)

1・ イスラエル人がエジプトから脱出する状態にあった時、すなわちヤコブの部族が異国語を使う民族から脱出した時、

2・ ユダヤは彼(神)自身の聖所となった、すなわちイスラエルが彼自身の領地となったのだ。

3・ 海は見た、そして逃げた。ヨルダン川は後方へ逆流した。

4・ 山々は雄ヒツジのように跳びはね、丘々は親ヒツジの前を行く子ヒツジのように跳びはねた。

5・ 海よ、何があって、汝は逃げたが?ヨルダン川よ、何があって、汝は後方へ退いたのか?

6・ 山々は、何があって、雄ヒツジのように跳びはねたのか?また、丘々は、家畜の前を行く子ヒツジのようだったのか?

7・ 大地は、主の御顔によって、すなわちヤコブの神の御顔によって震えさせられた。

8・ 岩を水を湛えた池に変え、石を水を湛えた泉に変えた御方(神)。  (筆者訳)

〔原文解析〕

 

   現代においてギリシア語を習得する手段には二通りの方法があります。文学や哲学を研究したい人はアッティカ方言と呼ばれるギリシア語を習得します。我が国で出版されている教科書はその方言にそって作られています。また、聖書とキリスト教研究を志す人はコイネー(共通語)を学びます。古代ギリシアには多くの方言が存在していました。(下に添付した地図を参照)。我が国でも同じ「関西弁」といっても大阪や京都や滋賀や兵庫や、また伊勢まで含めれば膨大な種類になるように、古代ギリシアにはエーゲ海の島の数ほどの方言があって、ホメロスもその方言のいくつかを駆使して叙事詩を書きました。古代ギリシア語の言語学者の学説では、ホメロスの叙事詩の全体構造はイオニア方言で、それにアイオロス方言、アルカディア・キュプロス方言(地理的に離れていますが移住によって同じになった)が混在しているということです。もともとアッティカ方言はアテーナイを中心とした地方で使われていた言語でしたが、ギリシア悲劇やプラトン・アリストテレスなどの哲学がその方言で書かれたので、習得すると便利な言語になりました。ホメロスを読むためにはアッティカ方言を習得しなければなりませんが、その理由は、ホメロスがその方言を使って創作したからではなく、アッティカ方言がホメロスの言語から甚大な影響を受けて形成されているからです。ダンテが現代イタリア語に、シェイクスピアが現代英語に影響を与えたのと同じです。ということは、アッティカ方言を習得すればホメロスを読むためには都合が良いということです。かといって、それだけでは十分ではありません。やはり、いくつかの方言が混在していることを覚悟しておく必要があります。方言の多さは文学には表現の多様性の面で有効かも知れませんが、国家統一には極めて不便なものです。そこで、アレクサンドロス大王がギリシア全土を統一したとき、余りの方言の多さに不便を感じて、「コイネー(標準語)」を作りました。そして、大王が征服した国々にはコイネー・ギリシア語を公用語として使わせました。ギリシアに取って代わりラテン語を使うローマがヨーロッパを統治したときも、コイネー・ギリシア語は世界共通語として、また教養人の言葉として使われ続けていました。イエスとその弟子たちは、彼らの国語であるセム語系アラム語(ヘブライ語とは兄弟言語)を口承伝承の手段にして布教をしていたと言われています。その教えをギリシア語で書き留めた聖書が成立したときから、キリスト教は世界宗教に成長したと言うことができるかも知れません。

 

ウィキペディアの地図に筆者が加筆したものです。

 

   旧約聖書のヘブライ語からギリシア語への翻訳は、すでにプトレマイオス2世(在位:紀元前285~246)によって行われていました。すなわち、そのギリシア語聖書は、キリスト教が旧約を自らの聖書として採用する300年以上前から成立していたことになります。上で見た『詩篇113番』は、その『セプトゥアギンタ』に収められているものです。

 

ラテン語聖書『ウルガータ』

 

   聖書はキリスト教にとって最も重要なものです。ローマ帝国の繁栄と拡大と共に、帝国の国語であるラテン語で翻訳された聖書の必要性も増してきました。そのために、多くのラテン語訳が登場してきましたが、ついに時の教皇ダマスス1世(Pope Damasus I、在位:366~384)の依頼によってヒエロニムス(Eusebius Sophronius Hieronymus:347~420)が完成させた聖書が、教会の公認聖書『ウルガータ(Vulgata)』となりました。

   『ウルガータ』に収められた『詩篇』の特徴は、ギリシア語聖書『セプトゥアギンタ』からの翻訳とヘブライ語原典からの翻訳が並べて載せられていることです。

 

 

ギリシア語訳聖書『セプツアギンタ』からの翻訳

 

①  ハレルヤ(神を誉め称えよ)

 イスラエルのエジプトからの出国した時、異国の民族からヤコブの家が出国した時、

 ユダヤは神のしんせいなる所となり、イスラエルは神の支配地となった。

③ 海は(それを)見た、そして逃げた。ヨルダン川は、後方へ向きを返させられた。

④ 山々は雄ヒツジのように雀躍した。丘々は親ヒツジの中の子ヒツジのように雀躍した。

⑤ 海よ、汝に何があるのか?汝は逃げたのだから。ヨルダン川よ、(何があるのか?)後方へ退却させられたのだから。

⑥ 山々よ(何があったのか)汝は雄ヒツジのように雀躍したか?丘々よ、親ヒツジの中の子ヒツジのように(雀躍したのか)?

⑦ 大地は、主の面前から退却させられた。ヤコブの神の面前から。

⑧ その神は岩を水を湛えた池に変え、石を水を湛えた泉に変えた。 (筆者訳)

〔原文解析〕

 

 

ヘブライ語原典からの翻訳

 

① ハレルヤ(神を誉め称えよ)

  イスラエルがエジプトから出ていった時、すなわち異国の民族からヤコブの家が出ていった時、

② ユダ(の国)は彼(神)の聖地の中に造られ、イスラエルは彼(神)の支配地となった。

③ 海は(それを)見た、そして逃げた。ヨルダン川は、後方へ向きを返させられた。

④ 山々は、雄ヒツジのように跳び上がった。丘々は、群の中の子供たちのように(跳び上がった)。

⑤ 海よ、汝に何があるのか?汝は逃げたのだから。ヨルダン川よ、(何があるのか?)後ろへ退却させられたのだから。

⑥ 山々よ、汝たちは雄ヒツジのように跳びはねた。丘々よ、汝たちは群の中の子供たちのように。

⑦ 主の面前で激しく震えよ、大地よ、ヤコブの神の面前で。

⑧ 神は、岩を水を湛えた沢に変え、石を水を湛えた泉に変えた。(筆者訳)

〔原文解析〕

 

ミルトンの英語による『詩篇114番』

 

   ミルトンは、近代の聖書の分類に従って、『出エジプト記』の詩篇を『114番』と記載しています。そして、ミルトンがその詩篇をギリシア語で作り変えたのは1634年(26歳)頃だと言われていますが、その創作よりも10年ほど前(15歳頃)に英語によって書き表しています。それは、『詩篇114番の意訳詩(A Paraphrase on Psalm cxiv)』という表題が付けられています。幸にしてまた珍しく、その英詩には宮西光雄氏による日本語訳がありますので、それを拝借しておきます。

 

   テラの忠誠な息子の、祝福された子孫が、長年の苦労の後、彼らの解放を勝ちとり、全能者のみ手の力に導かれて、エジプトの国土から、カナンの地へ行ったときに、エホバの奇蹟がイスラエル族のなかで示され、その神の賛美と栄光がイスラエル族には、知られていた。その民族は見た、荒れた海を、而も震えながら逃げ、巻き毛の様に、泡だつ波頭を、地中深く、隠そうとするさまも。ヨルダンの澄んだ川水は、撃退された、弱い軍勢のように《さかさに流れ》て、太鼓腹の高い山山は、雄羊のように跳ねて、小丘はみな、小羊のごとく跳ね散らす。なぜ海原は逃げたか? そして山山がなぜ跳ねたか? ヨルダンはなぜ、その澄明な源泉へ、逆流したのが? 《地よ、おののけ。》エホバの面前で、こわがれよ。曽(かつては常に居まして、今後も常に存続されて、荒岩から鏡の様な《水のある沢》を押しだし、打てば火の出る燧石(ひうちいし)から、緩流の小川を迸(たばし)らせ得る神だから。 (宮西光雄訳)

〔原文〕

When the blest seed of Terah’s faithful son,

After long toil liberty had won,

And passed from Pharian fields to Canaan land,

Led by the strength of the Almighty’s hand,

Jehovah’s wonders were in Israel shown,                   5

His praise and glory was in Israel known,

That saw the troubled sea, and shivering fled,

And sought to hide his froth-becurled head

Low in the earth, Jordan’s clear streams recoil,

As a faint host that hath received the foil.                  10

The high, huge-bellied mountains skip like rams

Amongst their ewes, the little hills like lambs.

Why fled the ocean?  And why skipped the mountains?

Why turned Jordan toward his crystal fountains?

Shake earth, and at the presence be aghast                 15

Of him that ever was, and ay shall last,

That glassy floods from rugged rocks can crush,

And make soft rills from fiery flint-stones gush.

 

人文学者ブキャナンの『詩篇114番』

 

 

   ミルトンは、旧約の『詩篇114番』から想像力をかき立てられて、上の英語による「意訳詩(A Paraphrase)」を創作したのではないようです。若い頃のミルトンの古典学の知識は、彼より二世代前の偉大な古典学者ジョージ・ブキャナン(George Buchanan: 1506~1582)の影響が強かったと言われています。そして、ミルトンの書いた『詩篇』も、ブキャナンの影響が多かったと言われています。それゆえに、ミルトンのギリシア詩を読む前にブキャナンの同題の詩篇を見ておく必要があるでしょう。次ぎに載せるブキャナンの『詩篇114番』の翻訳は、日本語として多少の不自然さがありますが、原文のニュアンスをできるだけ留めようと試みたものです。

 

   (1-2)イサクの子ヤコブの一族(イスラエル民族)が祖国の国境へ向かって移動して、憎むべきエジプトの異国の広野を去った時、(3-4)神自らが、神の権能によってユダを安全にして、神自らが彼(神)の民の先導旗になられたのであった。

(5-6)海は見た。そして不安で震える海は、驚いて仰天している波を砕いた。ヨルダン川の逃げ惑う水を源流の方へと追い立てた。(7-8)でこぼこしている峰々は削られていない山々に沿って跳びはねた。それはちょうど、群の先導者が栄養の十分な羊たちの間で雀躍するようであった。(9-10)そして、葉の茂った丘々が高い峰々を震動させたのは、子ヒツジがいつものように草原の中で跳び回るようであった。

(11-12)海よ、汝は何を見たのか?なぜに、汝はいつもいた河床から退いたのか?川の流水よ、なぜに、汝は汝の源流へと逃げるのか?(13-14)山々よ、なぜに頂を震動させて、そんなにも跳びはねたのか、太った群の先導者が羊たちの間で雀躍するように?(15-16)丘々よ、葉の茂っている頂で、なぜにそんなにも跳びはねたのか、子ヒツジたちが草原の中でいつも跳び回るように?

(17-18)神の出席(神がそこに居たこと)が、震える地球を畏れさせた(=大地を震えるほど畏れさせた)。彼(神)のために、沢山の生贄の獣がソリュマ(=パレスティナ=エルサレム)の釜の中へ入れられて殺された。(19-20)神は、液状のものを使うために、石の血管を広げた。神によって、固い火打ち石は豊潤な流水で充満した。 (筆者訳)

〔原文解析〕

 

ミルトンのギリシア語による『詩篇114番』

 

   ブキャナンの『詩篇114番』は、単調な聖書的表現から豊かな文学的作品として再生されています。ミルトンも、母国語英語によってそれに挑戦しましたが、自ら述べているように「意訳(パラフレーズ)」の域を出ることができなかったかも知れません。彼は、英語による創作からおよそ10年後の1634年、ギリシア語によって同じ詩篇を書き直そうとしました。その年のミルトンは、1700行以上のラテン語の詩を書き終え、ケンブリッジ大学を卒業した後に修士号も得て、詩人として頭角を現してきました。おそらく、同じ題材でギリシア語で書き直すことがミルトンの念願であったかも知れません。段落ごとに区切って、そのギリシア詩を鑑賞してみましょう。まず、最初の4行は「序歌」に相当します。

 

   (1-2)イスラエルの子供たち、ヤコブの輝かしい民たちが、異国語を話す忌まわしいエジプトの地を後にした時、 (3-4)まさしくその時に唯一の聖なる民族はユダの子孫であった。(=ユダの子孫が唯一の聖なる民族となった。)さらに主である神は、大いなる王となった。(筆者訳)

〔原文解析〕

 

   序歌に続いて、状況説明が展開されます。冒頭の序歌を「起 (introduction)」とするならば、それに続く7行(5行目から11行目)は「承 (development)」にあたります。

 

   (5-7)海は見た。そして、押し寄せる波に蔽われて大急ぎで逃げて退いた。それから、聖なるヨルダン川は銀色の源泉の方へと追い払われた。(8-9)限りなく高い山々は動揺して跳びはねたが、それはちょうど、雄ヒツジが肥沃な牧場の中で血気盛んであるようであった。(10-11)(山)より小さなすべての崖は、いっせいに跳びはねたが、それはちょうど、子ヒツジが愛する母親に守られて笛の脇で(=笛にあわせて)するようであった。(筆者訳)

〔原文解析〕

 

   次に続く7行(12行目から18行目)は、「転(denouement)」の部分に相当します。それらの詩句は、前節の「承」の部分で言及されたものに対する問いかけになっています。

 

   (12-14)巨大にして恐ろしい海よ、汝は、なぜ、大急ぎで逃げて退いたのか?押し寄せる波に蔽われたのか?それからさらに、聖なるヨルダン川よ、なせに汝は、銀色の源泉の方へと追い払われたのか? (15-16)限りなく高い山々よ、汝らは動揺して跳びはねていたか、肥沃な牧場の中で血気盛んな雄ヒツジのように? (17-18)されにそれから、山より小さな崖たちよ、なぜ、汝らは跳びはねたのか、子ヒツジたちが愛すべき母親に守られて笛の脇でするように?(筆者訳)

〔原文解析〕

 

   上の「転」の部分を構成している疑問文の構造は、ここまで見てきたどの聖書にも共通に存在していました。しかし、その箇所には、聖書学的にも神学的にも定説がありません。ここで二通りの解釈を紹介しておきましょう。

   まず一つめの解釈は、その疑問文を修辞的用法とみなすことから始まります。今まで人間を苦しめてきた烈しい自然も、神の前では無力です。海は逃げ惑い、川は逆流し、山は踊り狂うだけで、何も成す術を知りません。人間の前では強暴なだが、神の前では弱小な自然に対しての、人間側からのアイロニーです。(関根正雄『詩篇註解(下)』教文館、152頁参照)。

   もう一つの解釈は、その疑問文を自然に対しての単純な問い掛けであるとみなしています。イスラエルの民族がエジプトを脱出するとき、紅海とヨルダン川が彼らのために道を開いた奇跡、シナイの山と砂漠の丘が神の霊の超自然の力にひたされて、生き物のように活気を帯びた奇跡、そのような奇跡の奥義を、当事者である海や川や山に「教えてくれ」と問い掛け願っている、と解釈します。(フェデリコ・バルバロ『旧約聖書注解集②、詩篇註解-下、ドン・ボスコ社、279頁参照』)。

   筆者個人としては、前者の「自然は、人間の前では強暴だが、神の前では従順である」という解釈よりも、後者の「海も山も川も神の奇跡によって活気付く」という解釈の方に好感を覚えます。

   上の「転」の部分を構成していた「疑問・質問」に対する「解答」が「結(conclusion)」の部分を形成しています。その箇所は次のような詩行で結ばれてあいます。

 

   (19-20)大地よ、大音響を轟かす神を畏れて、震えおののけ。崇拝するということに関して最高のイサクの子の神を畏れて逃げる大地よ。(21-22)そしてまた、神は岩礁の中から轟音を立てて沸騰する川を注ぎ出し、泣き濡れた岩から永遠に湧き出る泉を注ぎ出した。(筆者訳)

〔原文解析〕

 

   上のミルトンの詩篇の「結びの部分」は、「震えおののけ」と命令文になっています。これまで見てきた聖書の中で、命令法が使われている聖書は、ヘブライ語原典からの翻訳『ウルガータ』と英語訳『欽定訳聖書』でした。その反対に、命令法が使われていなかった聖書は『セプトゥアギンタ(70人訳聖書)』と『ウルガータ』の「セプトゥアギンタからの翻訳」と『ブキャナン訳詩篇』でした。その事実から推測すると、ヘブライ語の正典は命令文であったということが推測できます。またその反対に、命令法を使っていない聖書は、『セプトゥアギンタ』から影響を受けていると言うことができます。ミルトンのギリシア語訳『詩篇114番』はブキャナンから感化を受けたと言われていますが、この「命令法問題」だけから推測すると、必ずしもそうとばかりは言えないのではないでしょうか。

   ミルトンは、そのギリシア詩を叙事詩風に書こうとしたことは確かです。韻律としては、ホメロスのヘクサメトロスとは違っていますが、用語法はその真似をしています。その詩の中でミルトンが使かっている叙事詩専用語の主なものと標準ギリシア語との比較を表にして、下に添付しておきます。叙事詩の韻律とその専用語については、私のブログ『西洋叙事詩の韻律』を参照してください。