『神曲』煉獄登山6.中世時代のザラ賭博 | この世は舞台、人生は登場

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賭博の直喩

  

   煉獄前域 (アンティプルガトーリオ、Antipurgatorio)には、昇天が許されてはいても現世での罪が重かったため、すぐに浄罪を開始することが許されない霊魂たちが無駄に時を過ごしています。その前域での滞在時間を短縮することができる唯一の方法は、現世にいる「善良な者たちの祈祷 (buone preghiere)」を煉獄の霊魂たちのために行うことです。それゆえに霊魂たちは、ダンテが生者で現世に戻ることができる存在であることを知って、彼らの近親者に自分のために祈ってくれるようにと、彼に伝言を託しました。ダンテに対して現世への伝言を依頼する霊魂たちの姿が、賭博に勝った者に金銭をせびる群衆に喩えて、次の様に描かれています。

 

  ザラ賭博に決着が着くと、負けた方の男は侘しい想いでそこに留まり、サイコロをもう一度振ってみる。すると不運を思い知ることになる。もう一方(勝った方)の男には、すべての者たちが一緒に着いて立ち去っていく。ある者は前の方を進み、またある者は後ろから引っ張りながら着いて行く。さらにまた、ある者は横について自分に気付いて欲しがる。しかし、その勝った方の男は、歩みを止めることはないが、あちらの者やこちらの者の話を聞き入れてやる。そして彼は、手を差し出して恵んでやると、それ以上はねだらなくので、やっと群集から抜け出ることになる。

  そのように、私はぎっしりと取り囲む群の中にいた。そして、あちらこちらと彼らの方に顔を向けて約束をしてやったので、私は群衆から解放された。(『煉獄篇』第6歌1~12、筆者訳)

【原詩】 

  Quando si parte il gioco de la zara,

      colui che perde si riman dolente,

      repetendo le volte, e tristo impare;

   con l’altro se ne va tutta la gente;

      qual va dinanzi, e qual di dietro il prende,

      e qual dallato li si reca a mente;

   el non s’arresta, e questo e quello intende;

      a cui porge la man, più non fa pressa;

      e così da la calca si difende.

   Tal era io in quella turba spessa,

      volgendo a loro, e qua e la, là faccia,

      e promettendo mi sciogliea da essa.

〔原詩への注〕

〔2行目〕 si riman = si rimane: rimanersi (代名動詞)の現在三人称単数:「留まる、残留する」。

〔3行目〕 repetendo =(現代イタリア語では)ripetendo: ripetere「繰り返す」のジェルンディオ(英語の分詞構文を作る品詞)。

〔4行目〕 se ne va: andarsene(代名動詞)現在三人称単数「立ち去る」。

〔6行目〕 dallato = dal lato「側面から」

      li = gli(人称代名詞の間接補語の三人称男性形単数)「彼に(=勝った者に)」。

〔7行目〕 el = egli(人称代名詞の三人称男性単数主格)「彼は(=勝った者は)」。

〔10行目〕 era io 「私は・・・である」:現代イタリア語では、essere(英語のbe動詞)の半過去1人称単数はeroで、3人称単数が‘era’であるが、ダンテは前者を3人称として使っている。

〔12行目〕 sciogliea = scioglieva:sciogliere 「解放する」の半過去1人称単数。

 現代イタリア語では1人称は‘scioglievo’であるが、ダンテは ‘sciogliea’を使っている。また代名動詞‘sciogliersi’は「解放される、自由になる」の意味になる。

 

  叙事詩の始祖ホメロス以来、作品の中で使われている直喩は、ほとんど日常生活からその素材を採っています。ダンテが『神曲』で描いている地獄も煉獄も天国もこの世の空間ではなく、誰も行ったことも見たこともない別世界です。それゆえに超現実の世界を身近な現実世界の事物で説明することは、直喩の重要な役割でした。それゆえに、直喩の中で描かれている内容は、詩人の生きた時代の社会生活を知る上に重要な資料になることがあります。上のダンテの詩行も、中世時代のヨーロッパで行われていた「ザラ賭博 (il gioco de la zara)」を描いた貴重な資料です。しかし残念ながら、その賭博の詳しい方法は、ダンテの記述だけではわかりません。その概要はシングルトンによって引用されたシュデカウエル(Ludovico Zdekauer、1855年プラハ生まれで1924年フィレンツェで死亡)の著書の中で説明されています。しかしシュデカウエル自身も言っているように、その賭博の方法について満足のいく程の解明はされてはいません。

 

ザラ賭博のルール

  ザラ賭博 (il gioco de la zara)は、三つのサイコロ(伊語:dado、英語:dice)を使って行う賭け事であったと言われています。そして、三個のサイコロと平らな場所さえあれば、特別な部屋もゲーム盤を必要としないので、普通に街角で行われていたようです。

  我が国の時代劇で観る「丁半」の二者択一で勝負を決める「サイコロ賭博」とは異なり、ザラ賭博は三個のサイコロを振って出た目の合計数を重要視するゲームです。[1]から[6]までの目を持ったサイコロを三個使いますから、その出た目の合計数は、[3]から[18]までのどれかの数になります。そして、振って出た合計数の大小によって勝敗を決めるゲームではないので、勝利を得る者は、最も小さな数字[3]を出した者でも、最も大きな数字[18]を出した者でもありません。参加者は金銭を賭けるのですが、ダンテが描いているように、勝った方の者に大勢の者がお金をせびってつきまとったのですから、かなり高額の掛け金であったと推測されます。しかし、一回の賭博には、何人が参加したのかはわかりません。ダンテは「負けた方の男は侘しい想いでそこに留まる(colui che perde si riman dolente)」と単数形で記述していますので、一対一の差しの勝負であったと考えることもできます。また「すべての人々はもう一方(勝った方)の男と一緒に立ち去る (con l’altro se ne va tutta la gente)」と表現されています。「すべての人々 (tutta la gente)」は文法的には単数形ですが意味的には複数形なので、勝者にお金をせびる者たちは、賭博を観戦していた野次馬的な観衆とも、また賭博の参加者で負けた方の者たちとも解釈できます。ダンテの記述からは、どちらにも解釈することが可能だといえます。

  ザラ賭博の参加者は、まず[3]から[18]までの中から自分が出そうとする数字を声に出して言います。それから、三個のサイコロを振って、自分が言った数字が出れば勝利を得ることになります。ところが、参加者の中に、言った数字と振った数字が一致する者が誰も出ないときは、「ザラ」と叫んで勝負のやり直しをしました。その「ザラ (zara)」とは、アラビア語で「ゼロ (zero)」という意味で、「勝負なし」と叫んだことから、その言葉が賭博の名称になったと言われています。しかし、この賭博の形体には矛盾を感じさせられる点があります。三個のサイコロの目によって出される数字の確率は均等ではありません。それぞれの数字と確率を具体的に確認しておきましょう。

  たとえば、[3]と言った人のサイコロの目は、《1+1+1》の一種類の可能性しかありません。同じく[18]と言った人も《6+6+6》の一種類しかありません。しかし、[10]を指定した人は、三個のサイコロを使うので27通りの組み合わせの可能性があります。念のために、すべての組み合わせを確認しておきましょう。

 

  因みに、[10]と同じく27通りの組み合わせをもつ数字は[11]で、[3]と同じく1通りしか組み合わせを持たない数字は[18]です。そして、全ての可能な組み合わせの合計は、216通りになります。それを全てまとめたものが、下に添付した図表です。

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  上の図表によって一目瞭然ですが、[3]と[18]の数は出る確率が最も低いので、その数字を賭けるのは冒険です。おそらく、最も確率の高い[10]か[11]とその前後の数字で勝負が行われたのではないでしょうか。現代の競馬や競輪などのように、勝つ確率の低いところに賭けたほうが配当金が高いというシステムでなければ、ギャンブルとしての機能も魅力もありません。ザラ賭博に関しても、確率の低い数字に賭けた者に何らかの特典があったかも知れませんが、配当金について説明されている資料は見当たりません。おそらく勝負は、[10]と[11]を挟んだ上下の確率の高い範囲の数字で行われたのでしょうか。ダンテの息子ヤコポ・アリギエリィ(Jacopo Alighieri、1289~1348)とも親交があったと言われているヤコポ・デルラ・ラーナ (Jacopo della Lana、1290~1365)は、『煉獄篇』の上に引用した詩行に注釈を付けています。そしてその中でラーナは、「サイコロを再度振ってみて、我が身の不運さを知る (repetendo le volte, e tristo impare)3」ことになった「負けた方の男 (colui che perde)2」が言ったかも知れない独り言を推測しています。その独り言とは、おそらく次の様であったと、ラーナは書いています。

 

  もし私が、[11]と言っていなかったならば、負けることはなかったのに。その数字は、出るにちがいない適切なものだったので、私はその数字(11)を言ったのだ。

    Se io non avessi chiamato XI ( undici), non avrei perduto. Io chiamavo cotale numero, che era ragionaevole a dovere venire.

〔文法説明〕

 avessi:avere(「持つ」の意味で、ここでは助動詞)接続法半過去1人称単数。

chiamato:chiamare「大声で言う」過去分詞で、‘avessi chiamato’と結合して接続法大過去となって〈条件文〉を形成している。

avrei:助動詞用法の‘avere’の条件法現在1人称単数。

perduto:perdire「失う、負ける」過去分詞で、‘avrei perduto’と結合して条件法近過去1人称単数を形成している。

全文では、仮定法大過去の文型になって、過去の事実と反対のことを表現している。

  

  ダンテの直喩に描かれたザラ賭博に負けた男は、出る確率が最も高い数字「11」を彼の勝負数字に選んだのですが、残念ながら負けてしまいました。しかし、その時の勝利を得た者がどの数字を選んだのかまでは記述されていないので、勝手に推測してみましょう。。この男は、[11]という最も安全な数字を指定したので、大胆な勝負に出るような性格ではなかったことでしょう。「[11]と言っていなかったらよかった」と、その男は後悔しているのですから、彼の頭にはもう一つ候補にしていた数字が存在していて、どちらにしようか迷っていたことでしょう。そして結果的には、その候補にしていた数字がその時の賭博の「勝利の数字」であったと考えられます。その男は小心者があったので、確率の低い数字で勝負する度胸はなかったので、彼の迷った数字は、[10]か、またはそれに近い高い確率の数字である[9]か[12]であったことでしょう。そして、結果的には、その数字を出した者が勝者となって、皆から小銭をせびられながら立ち去って行ったのです。

 

このブログの主な参考文献:

チャールズ・シングルトン編注の『神曲:煉獄篇』のテキストおよび注釈書(プリンストン大学出版)です。

原文:C.S. Singleton(ed.) “Purgatorio”2:Commentary, Vol.1.Pt.2 of Dante Alighieri, The Divine Comedy, 3 vols., Princeton U.P.