『神曲』地獄巡り1.地獄界への旅立ち | この世は舞台、人生は登場

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人生の道の半ばで、正道を踏みはずした私が目を覚ました時、暗い森の中にいた。

 この詩句は、この先14233行に渡って続く『神曲』の最初の3行です。ダンテにとっての「人生の道の半ば」とは、何歳のことでしょうか。いろいろな説があるようですが、「35歳」という意見が定説になっています。その根拠を説明しましょう。
 旧約聖書の『詩篇(90-10)』の中に「我々の人生は60と10年です」と書かれています。すなわち70歳だと言っているのです。日本では、織田信長が出陣の折に歌ったことで有名になりました幸若舞(こうわかまい)『敦盛(あつもり)』の中の一節「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり」にあります「50歳」が平均寿命の定説でした。我が国と較べると、西洋の方が平均寿命を長く想定してるようです。「一年(365日)で一歳ずつ年を取る」という基準が違うのかも知れませんが、旧約聖書に出る人間は常識では考えられない程の長さです。たとえば人間の始祖アダムは130歳でセツという男子を生み、930歳まで生きたことになっていますので、まともに受け止めない方が良いでしょう。しかし『詩篇』で言う「70歳」は常識的で、ダンテがその平均寿命を信じていたとしても普通でしょう。また、彼の他の作品『饗宴(Convivio)』(第4篇14章3)において「我々の人生の軌跡の頂点は35歳にある」と書いています。ということは「人生の半ば」は矢張り35歳ということになります。この〈35歳説〉を前提にすれば、ダンテが冥界訪問をした年月が解決できます。
 1265年生まれのダンテにとって35歳の年は1300年ということになります。その年は、キリスト教史上初めての「聖年(大赦の年:羅語 Iobeleus、伊語 Giubileo、英語 Jubilee)」が、時の教皇ボニファティウス8世によって宣告された年でした。近年の「聖年」といえば、コンピュータの世界でミレニアム・バグと呼んで誤作動が心配された二千年にヨハネ・パウロ2世によって出されたことで有名です。ボニファティウス教皇は、ダンテにとっては疫病神のような人物なので、更に下の方の地獄の底にあたる第8圏谷第3濠に入った時に詳しく説明しましょう。
 1302年に故国フィレンツェを追放されダンテは、滞在地ヴェローナで1307年ごろから『神曲』の執筆を始めていました。その作品の『地獄篇』の中で、第8圏谷に堕とされた無数の亡者たちが鞭で追い立てられている有様を、神の赦免を求めてサン・ピエトロ寺院(Basilica di San Pietro)へ押し寄せる群衆に喩えて、次のように描写しています。

「ちょうどローマ人が、〔千三百年〕大赦の年に、大群衆をさばいて橋を渡すために、一計を講じ、一方の側の人はみな〔サン・タンジェロの〕城とサン・ピエトロ寺院へ、他方の側はみな丘へ向かわせたのと同じ具合だ。」(『地獄篇』第18歌28~33:平川祐弘訳)

 意図的なのか偶然なのかは明らかではありませんが、ダンテは1300年という記念すべき年の復活祭の祝日に冥界訪問を設定しました。そして彼は作品中に時間の経過を暗示する文言を挟んでいますので、いろいろな研究者が関門通過の曜日と時刻を推定しています。それを暦にしたものを下に載せておきましょう。ただし、曜日と時刻に関してはほぼ誤差はないのですが、復活祭は移動祭日なので、西暦1300年の月と日に関しては諸説があって定説はありません。ましてや当時はまだユリウス暦でしたので、今日のグレゴリウス暦に読み換えるには、13日前に換暦する必要があるようです。その暦に従いますと、ダンテが暗黒の森(selva oscura)に入ったのは、曜日は同じ木曜日ですが、月日は3月25日ということになります。




地獄の暗い森は一方通行

暗い森

 ダンテが35歳にして迷い込んだ「暗い森」は、迷い込んだら最後、引き返すことが出来ない森で、実質的には「地獄の敷地内」だとみなすことができるようです。原文は‘selva oscura:セルヴァ オスクーラ’で、形容詞‘oscuro’の女性形が使われています。英語の得意な人は‘obscure’という形容詞で解釈しても同じです。この言葉には、「光学的な明るさを欠いているための暗さ」と「知的および精神的に劣るための暗さ」の二重の意味があります。この「暗い森」は、地獄へ堕ちることが決定された人間の視野も精神も判断力もすべて機能不全に陥った状態なのでしょう。もはやここまで来ると引き返すことは不可能です。
 登場人物のダンテは何とかして森を脱出しようとして谷を抜け、丘の麓に辿り着きました。そこで丘の上を見上げると「丘の稜線が、もう暁光に明るく包まれているのが見えました。あらゆる道を通して萬人を正しく導く太陽の光(『地獄篇』第1歌16~18、平川訳)」が、次第に薄れていくのが見えました。原文には「太陽(sole:ソーレ)」ではなく「惑星(pianeta:ピアネータ)」が使われていますが、『神曲』の宇宙はまだ天動説でしたので太陽も地球を回る惑星の一つでした。しかし、太陽が人間を正しく導く特別な惑星であったことは、古代より変わりはありません。そしてその太陽が沈むと同時に聖木曜日の夜が訪れました。

豹の威嚇

メス豹ロンツァ

 ダンテは、今まで誰ひとりとして生きたまま通った者がいない森を、やっとの思いで抜け出て、砂山の坂道に着きました。するとメス豹(lonza、ロンツァ)が現れて、彼の行く手を阻みました。シングルトン(Charles Singleton)というダンテ学者によれば、中世時代に書かれた『トスカナの動物物語(Bestiario toscano)』には、父親と母親はどちらでもよいのですが、ロンツァというメス豹はライオン(leone、レオーネ)と豹(leopardo、レオパルド)との不義の子であると書かれています。ゆえにメス豹は「肉欲の罪の象徴」だと言われることが一般的です。この先の第16歌に「私は腰のまわりに縄帯をしめていた、この縄でもって斑目のメス豹を捕らえてやろうとしたことがあった」というダンテの独白があります。この中の「縄帯」は禁欲主義を教義としたフランシスコ修道会の象徴で、ダンテも修道士となってメス豹(=情欲)を抑制したいと思っていた、と解釈されています。

聖金曜日の朝明け
 ダンテはメス豹に威嚇されてうろうろしている間に、聖金曜日の朝が明け始めました。その日のその時の描写は次のようです。

「時は折しも朝明けの時刻で、太陽は星々をしたがえて昇ってきた、神の愛がはじめて天地の美しい事物を動かした時も、太陽とともにあったあの星々であった。この朝という時刻もこのさわやかな季節も、毛並み鮮やかな豹を恐れる道理はないといっているかに思われた。」(『地獄篇』第1歌37~43、平川訳)

 「神の愛がはじめて天地の美しい事物を動かした時」とは、天地創造のことであると解釈されています。『創世記』(第1章14~19)によれば、神は、まず太陽と月を作った後で、その他の天体を作ったとされています。しかしダンテは、聖書とは違った解釈をして、神が太陽を創造すると同時に「太陽とともにあったあの星々」が存在していたと考えていました。そしてその「星々」は、聖書の中には記述がないのですが、解釈は定着しています。
 もともとキリスト教とは無関係だったのですが、いつの間にか同化した星と言えば「黄道12星座(宮)」です。『神曲』を理解するためには、聖書とローマ神話に次いで重要な知識ですので、私が分かり易いように付加・加工した「黄道帯図」を下に載せておきます。

黄道12宮
黄道12宮読み方

 前述の詩句中の太陽と一緒に昇ってきた「あの星々」とは、黄道12星座の第一宮である「白羊宮(雄羊座)」のことです。そして天地創造が行われたのも白羊宮の時節、すなわち3月21日頃から4月20日頃までの間の7日間であると信じられています。太陽が白羊宮と共に昇る時節とは「爽やかな季節(dolce stagione:ドルチェ・スタジョーネ)43行目」である春の初めのことで、その頃には春分があり、キリストの受難と復活など新しい生命の誕生と再生を象徴する行事が行われます。そして、白羊宮の星々を従えて太陽が昇った日時は、聖金曜日の朝であろうと推測されています。

一難去ってまた一難
 聖なる朝の太陽が昇るのを見て、ダンテは森から脱出できるのではないかという望みを持ちました。しかしそのつかの間、今度は「オス獅子(leone)」が行く手を遮りました。その時の様子は、次の3行だけです。

「獅子は私をさして進んでくるらしい、頭をもたげ飢えに怒りたけるから、大気まで恐れにおののいている。」(『地獄篇』第1歌46~48、平川訳)

行く手を遮る獅子

 このオス獅子は、「頭を高くもたげ(con la test' alta)」「凶暴な飢えで(con rabbiosa fame)」大気まで震動させながら接近してきました。この二つの描写から獅子の象徴的意味が推測されています。定説化されているのは「傲慢」や「暴力」の罪業です。
 獅子の恐怖が消える間もなく、貪欲を象徴する「メス狼(lupa:ルーパ)」が現れました。この狼は、痩せこけた身体の中にありとあらゆる欲望を満載しているよに見えました。この狼は、じわじわと迫って来ましたので、ダンテは森から脱出する気力を失いました。そして彼は、太陽が沈黙する所(là dove 'l sol tace:ラ ドーヴェル ソール ターチェ)へ、すなわち暗黒の谷に向かって進んでいました。

先導者ウェルギリウス登場

 まさしくダンテが奈落に堕ちようとする寸前、ウェルギリウスが救出にやってきました。実在のウェルギリウス(Vergilius)は、古代ローマ最大の叙事詩人で、イタリア語では「ヴィルジリオ(Virgilio)」、英語では「ヴァージル(Virgil)」と呼ばれます。
 ダンテは、最初にウェルギリウスが現れた時、誰か分かりませんでしたので、「どうか、私にお慈悲を。あなたが亡霊であろうと現世の人であろうとかまいません」と懇願しました。するとその亡霊は自分の身分を明かして、「父も母も、マントヴァ生まれのロンバルディア人で、私は、ユリウス・カエサルの晩年に生まれてアウグストゥスの統治時代に生きた。そして名門のイリオンが炎上した時にトロイアから来たアンキセスの息子を詩に書いた詩人だ」と答えました。すなわち、アンキセスの息子アエネアスを主役にした『アエネイス』を書いたウェルギリウスであると自己紹介をしているのです。(その作品に関しては、私の以前のブログ『歴史はファンタジーでプロパガンダでした』の中で詳しく書いてありますので参照してください。)
 その自己紹介を聞いたダンテは、「では、あなたが、あのウェルギリウスですか、言葉の広大な流れを注ぎ出しているあの源流ですか。」と感嘆の言葉を発しました。私の独断的文学理論ですが、この物語の技法を「実はもの」と呼んでいます。この詩句の原文は“se' tu quel Virgilio”です。「あなた(tu)」が「あの(quel)」「ウェルギリウス(Virgilio)」「ですか(sei)」と相手の名前に指示形容詞を付けて呼ぶことは、敬意を表すにしろ軽蔑を表すにしろ、最も単純ではありますが極めて効果的な強調法です。この場合は、ただの亡霊かと思ったら《実は》最も尊敬する詩人であった、と感激するのです。我が国にもこの技法は、しばしば使われます。日本人なら誰もが知る有名なものは、田舎の爺かと思ったら〈実は〉黄門様だったとか、貧乏旗本の三男坊かと思ったら〈実は〉将軍様だったり、しょぼくれた小父さんかと思ったら〈実は〉もと判事だったりする「実はもの」が多いようです。ダンテも『神曲』の中で、「実はもの」技法をところどころで効果的に使っています。
 ダンテからウェルギリウスへ賛辞がそのあと次のように続きます。

「おお、あらゆる詩人の名誉であり光であるあなた、長い間ひたすら深い愛情をかたむけ、あなたの詩集をひもといた私に情けをおかけください。あなたは私の師です、私の詩人です。私がほまれとする美しい文体は、余人ならぬあなたから学ばせていただきました。」(『地獄篇』第1歌82~87、平川訳)

 この言葉に表れているようにダンテはウェルギリウスに対して並々ならぬ畏敬の念を持っていました。そしてまたダンテは、『アエネイス』第6巻の冥界訪問譚を『地獄篇』創作の模範にしました。この二つの点が、プラトン、アリストテレス、オウィディウスなど数ある候補者の中からウェルギリウスを地獄・煉獄の案内者に選んだ決め手になっています。
 さて、ウェルギリウスはダンテを暗黒の森から脱出させるための最善の手段を考えつきました。そして、その脱出経路の略図を話して聞かせました。死者たちが二度目の死を永劫に呻き苦しんでいる場所「地獄」を通り(114~117)、いつの日にか祝福の場所へ行くことができるという希望があるので、火の中にいても満足しているいる人たちの場所「煉獄」を抜けて(118~120)、そしてその上の祝福の場所「天国」の中はウェルギリウスよりも相応しい方が案内することになります(121~129)。ダンテは、今の悪い境遇とさらに悪い境遇から脱出できるように導いてほしいと願って、ウェルギリウスに導かれて地獄の奥底へ向かって歩き始めました。その先には、地獄の門が待ち構えています。