栄区を流れるいたち川流域は、律令の頃より室町初期に至るまで地域文化圏の中心地として大いに栄えました。
平安時代には、物事の起点とされる尺度(さかど)という地名が用いられていたこと(今日の本郷台周辺)や多くの著名人を輩出したことからも、早い時期から高度な文化圏を形成する地域であったことが伺えます。
また、尺度は税制の対象としての基点という意味合いがあり延喜式にみられる税金や物資の流通拠点であったばかりか、高僧良弁(東大寺初代別当)はこの地を治めた染屋太郎太夫時忠の子といい、東大寺建立に際し多大な寄進の記録が残る漆部氏の姓が染谷氏であるとされることからも、いたち川流域における文明の成熟度を解釈するうえで力強い後押しになります。
さらに、時忠は製鉄事業で財を成したといわれ、近年栄区で発見されている関東最古にして最大規模の深田製鉄遺跡の年代が時期的に一致しており、いたち川流域が七世紀当時最先端の製鉄文化を育んだ類まれな文化の中心地であったことを裏付けます。
従来の説(鎌倉幕府以前の鎌倉周辺は不毛の地)に反し、上記のような文化的背景がのちの南北朝期に全盛期を迎え、今日も高い評価を得ている相州伝の誕生へとつながっていきます。
ちなみに、いたち川源流域に位置する長倉の地には、長者窪という字の谷戸があり、当時の屋敷の形状から鑑みても何らかの権力者の住居跡であろうことが想像できます。
ほぼ変わらぬ地形と地名が当時のまま残されていることも、鎌倉を含め栄区一帯の特色でもあります。
さらに下流域にあたる笠間には、鎌倉時代に整備されたとされる(実際には、国譲り神話の時代からあったであろう)街道があり、今日でも昔と変わらぬ交通の要衝として機能しています。
この「笠間」の地名を考えるうえで、茨城県笠間市の存在を外して解釈することは難しいでしょう。
鹿島神宮の社殿が建つ茨城県は、かつて東国の蝦夷と大和朝廷が対峙する最前線の戦地でした。
これより先の北方は、敵方の支配地域と考えられていたわけです。
そのため大和朝廷側の武人は、利根川を挟んで朝廷側に位置する香取で先勝祈願や軍備の増強?充実を図り、鹿島の地で最後の祈りをささげて戦場へと赴いたのでしょう。
実際の戦場となったのが笠間などの、より蝦夷側の領土内と考えられます。
武の神を祭る社と言えば、香取神宮と鹿島神宮が有名ですが、どちらも神宮の名を持つ規模の大きな神社で皇室とも強い繋がりがあり、大和朝廷にとって重要な拠点であったことが伺えます。
香取・鹿島両神宮の周辺をつぶさに調べると、製鉄や刀剣との深い関係が見えてきますが、特に青や赤といった金属の色や鉄に関連した神社や地名、伝承が多く残されています。
いたち川下流域の笠間にも、青木神社・鹿島神社といった鉄と関連の深い地名が所狭しとひしめき合っていて、製鉄文化との関係を想像せずにはいられません。

一説には、茨城から来た製鉄氏族(俘囚か?)が住み着いたとする地名説もあります。

小高い丘の上へ参道を進むと、青木神社から分祀された鹿島神社があります。

こじんまりとしていますが、堂々とした風格。

笠間は、前出の関東最古の製鉄遺跡を内包する栄区にあって、さらに古い鍛冶場の遺構が発見されていることも注目に値します。
さてさて先週末、笠間地区を挙げての青木・鹿島神社の祭礼行事が執り行われました。

子供たちの元気な掛け声がこだまします。

今日では、製鉄との関連性を紐解くような個性的な催しはありませんが、地域の方々が力を合わせてお祭りを盛り上げています。

笠青睦會による、お神輿し。

地域最大規模のお祭りは、大人神輿の熱気と子供たちの笑顔を伝えるビックイベントとして、今後も末永く続いていくことでしょう。