茨城県取手市にある陽武館市村道場へ行きました。
陽武館は、松尾剣風先生のお志を受け継ぐ剣術道場です。
市村剣舟先生のご指導を仰ぎ、少しだけ理解が進んだような気がしますが、気のせいです(笑)。
お伺いする度に「何かを得て帰ろう!」と思いますが、基本が最も重要であることを痛感します。
毎回、居合の稽古のあとに、剣道形の稽古を続ける猛者。
茨城県取手市にある陽武館市村道場へ行きました。
陽武館は、松尾剣風先生のお志を受け継ぐ剣術道場です。
市村剣舟先生のご指導を仰ぎ、少しだけ理解が進んだような気がしますが、気のせいです(笑)。
お伺いする度に「何かを得て帰ろう!」と思いますが、基本が最も重要であることを痛感します。
毎回、居合の稽古のあとに、剣道形の稽古を続ける猛者。
当ブログでも、再三ご案内しておりますが、はじめて日本刀を所有される方にお願いがあります。
「刀剣の茎(なかご)の錆びを除去しないでください!」
日本刀の価値を決定付ける要因の一つは、「状態の健全さ」にあります。ここでいう「状態の健全さ」とは、現代人の感覚でいうところの「状態の健全さ」とは異なる価値観の上に成り立っています。
時代相応の状態に対する評価というものがあって、特に茎の錆の状態は健全さを評価する上で大切な判断基準になっています。
例えば、室町時代に作刀された刀剣は、500年近い歳月を経てネットリとした美しい錆が育っています。茎の状態を鑑賞することにより、刀身の経年による凄みを視覚・触覚で感じることができるのです。作刀されてから今日まで幾人もの武士や愛刀家が所有し、大切に扱ってきた結果として、今日奇跡的に存在している証拠なのです。
この御刀は、発見届の段階からご相談を頂き、適切にアドバイスを差し上げているつもりでした。ところが、登録書が発行された翌々日には、写真の状態にまで磨きこまれていました。たった2日間、目を離した隙に、「絶対に刀身を加工しないでください!」という忠告にも関わらずやられてしまったことになります。
元の状態にまで錆が落ち着くまでは、同じだけの時間が必要になるわけですから、日本人が何百年も守り続けてきた文化の一端に対し、取り返しのつかない過ちを犯したことになります。
くれぐれも、刀身の錆びを自己判断で除去することの無い様にお願いいたします!錆びた自転車と刀剣の茎は、全く別物であるということをご認識頂けます様、再三ながらくれぐれもお願いいたします。
週末、刀剣愛に溢れる有志で集まる刀友会へ参加しました。(ほぼ月一回、横浜刀剣会に合わせて朝から開催しています。)
当方は二日酔いで、午前中の集まりを遅刻する体たらくぶりでしたが、皆さんは武道談義で大盛り上がりだったそうです。刀剣を用いる武道と刀剣鑑定をバランスよく学んでいらっしゃる愛刀家が集まる機会というのは、私の周りでは非常にマレで、武道は武道だけ鑑賞は鑑賞だけというのが一般的のように感じます。
さてさて、横浜刀剣会では会員の方々の集合がやけに早いなあ~と思っていたら、講師は日刀保の若い女性学芸員さんでした(笑)。帰りも日頃はとっとと帰ってしまうので後片付けは半ば私達の仕事になっているのですが、皆さんいつまでも帰らないので私達が一足先に会場をあとにしたほどでした。しかも、会場のテンションがやけに高く、日頃話しかけてこない方々が話しかけてきたかと思うと答えを教えてきたのでとても困惑しました。こちらは、月一回の鑑定会を楽しみにしているので、耳鑑定に興味はありません。
今回の鑑定刀は、以下の通りでした。(途中で帰られた方とのお約束で、ちょっと詳しく書かせて頂きます。)
①第一号刀は、大摺り上げ無銘極めの光忠(鎌倉中期の備前長船派の祖で、蛙子丁子の焼刃は光忠に入れればとりあえず当たります。私は畠田と見ていただけに、そうですか・・・という感じでした。)
②第二号刀は、重要美術品指定の雲次(一投目長光で能、二投目助吉で能、ギブアップしましたが言われてみれば、鉄の黒さ・地斑映り・違和感のある輪反りが一文字とも長船とも違いました。)
③第三号刀は、南北朝期の左文字安吉(帽子が尖ってどちらかに倒れる感じが特徴です。)
④第四号刀は、新刀の初代肥前忠吉門人伊予掾宗次(気味の悪い肥前刀という感じでした。うちに持ち込まれたら、現代刀と言ってしまいそうです。)
⑤第五号刀は、戊辰戦争時の官軍最高司令官有栖川宮熾仁親王の指料で高松宮家旧蔵の千子村正でした。(手持ちの良さは、まさに妖刀といった感じでした。)
時代順に並んでいなかったことは大いに迷いましたが、あともうちょっと悩ませて頂きたかったので、若干ストレスを感じました。
鑑定会終了後は、いつものカフェで夕方まで刀剣談・武道談で盛り上がり、友好の輪を深めました。
週末、横浜中華街にある四五六菜館別館へ行きました。
こちらの什錦鍋巴(おこげの五目あんかけ)は、絶品!
15年以上前、貿易知識を習得するために、2年間資格学校へ通いました。一生のうちに、その時ほど法律の勉強をしたことはなく、夢にまで条項が出てくるほどでした。当時ご指導頂いていた恩師が91歳になるということで、先生の長寿をお祝いするために、日本中から大勢の教え子が集まりました。
中には10年ぶりにお会いする方など懐かしい面々もあり、先生もお元気そうで、楽しい時間を過ごさせて頂きました。
皆さん、各界でご活躍されている方々なので、日頃知らない世界のことなど、大変興味深いお話をお伺いしました。
これからも、大勢の教え子に慕われて、益々お元気でお過ごしくださいますよう念じております!
表題のとおりですが、「いったいこれは何でしょう?」・・・。
江戸時代の骨董品です。
全体に漆が塗ってあって、縁の部分に銅製の環が固定されています。
真ん中に、櫃穴?があります。
ヒントは、刀剣研磨の時に、ときどき用いる専門工具です。
答えは「研ぎ柄」といって、写真のように小さな短刀を研磨する時に、茎に装着します。
短い刀身のハバキ元を研磨する時に、重宝します。
この工具の様に、漆塗りや銅金具を用いて作られた手の込んだ作品は稀で、恐らく余裕のある職方の持ち物であったろうと思います。
研ぎの師匠から実用品として頂いた物ですが、何百年経ってもなお機能しており、当時と同じ使い方をされている道具はとても貴重なのではないでしょうか?
これからも大切に使い続けて、次の世代の職方にバトンタッチしたいと思います。
小柄の研磨、仕上げの工程です。
今回は、差し込み研ぎという技法で仕上げています。
切っ先の大きな朽ち込み意外は、とても健全な状態です。
面白い刃紋が焼かれています。飛び焼きや焼き刃の頭に簾状の技巧が見て取れ、鍛えも良いので好ましい小柄です。
この差し込み研ぎは、現在主流の「化粧研ぎ」よりも、もう一つ古い技法と言われていて、何種類も方法があります。古文書などには黒対馬砥石の粉を用いる方法が紹介されていますが、何度やってもうまくはいりません(涙)。というわけで、私は「金肌」という刀匠が刀を鍛える時に四散する鉄の粉をわけて貰って、ろ過したものを使っています。
鎌倉市内でももっとも風情を感じる場所は、北鎌倉駅周辺だと思います。多くの史跡と豊かな自然が残り、心落ち着く緩やかな時間が流れています。
藤源治の山頂(丸山)周辺から北鎌倉駅方向を望む風景
この地域は山ノ内という地名ですが、平安時代の山内荘の一部でした。
平安末期の山内荘の地図
ちなみに、古い時代の地名を研究していると、「荘」と「庄」が混在していて混乱します。「庄」は土地全体を意味し、「荘」は園地(耕作地)の管理棟を意味したと言われていますが、どちらも庄園・荘園といった使われ方をしており、意味に違いはないようです。
さてさて、相州伝が確立する以前から土着していたと考えられている山内鍛治(藤源次派)の一拠点(中心地は、小菅ヶ谷)で、時頼に召し出された名工達が数多く活動していたのが今日の山ノ内地区なのです。
今回は、山ノ内の原風景を求めて、山崎方面から山ノ内地区の源流域へと向かいました。
山崎地区は、1333年の新田義貞軍対鎌倉幕府軍の死闘が繰り広げられた洲崎古戦場として知られています。敵味方入り乱れての壮絶な戦闘がおこなわれたことを考えると、今に残る地形からどのような戦いがおこなわれたのかを想像してしまいます。
山崎小学校の脇を散策すると、今にも崩れ落ちそうな茅葺の門が現れます。
こちらは、無形の日本文化を一つのビジネスモデルに組み上げた天才的な文化人、魯山人の邸宅跡です。今日も、ひっそりと佇んでいます。
全盛期は、山崎地区全体が広大な「星岡茶寮」でした。
さらに梶原方面に向かっていくと、現在公園整備中のため立ち入りが禁止しされている山間部が見えます。
今回は、一度山ノ内方面からグルッと回って公園整備地の上流へと向かいました。
沼地から流れ出る小川の底には、砂鉄が堆積しているのが見えます。鎌倉全域で取れる鉄は全て赤目砂鉄ですが、相州伝に見られる大肌の鉄の正体は、この土地で取れる砂鉄に由来していると考えています。
溜池一帯の湿地です。土壌細菌の影響で、沼鉄鋼と思われる褐色が確認できます。
溜池の上流です。木洩れ日が幻想的です。
さらに上流へと進むと、最も標高の高いところに山ノ内配水池があります。かつて、ここが山ノ内藤源次派にとっての聖域であり、鉄の収拾場所であり、タタラ製鉄の重要な装置であったと考えられます。
一文字派の助真や相州伝確立後の鎌倉鍛治が、一度は足を運んだかもしれないこの地に来ると気持ちが高ぶります。今日も、当時の職方の思いを受け継ぎ、相州伝を目標に作刀を続ける刀匠たちや職方が大勢いることにうれしくなりますし、時空を超えて同じ思いを共有できる文化の重みに感謝と畏敬の念を感じます。
小柄の研磨中です!
当初ご依頼者様より、「鞘に何か細くて小さいナイフみたいな抜ける刃が刺さっていて、それがじゃまで刀がきっちり鞘に収まらない。」といったメールを頂いており、何の事か?と思っていましたら小柄でした。
既に錆が深く入り込んでおり、全て除去しようものならペラペラになってしまうことから、減らさずに焼き刃が見える程度に研ぐことにします。
見えてきた刃紋は、とても技巧的で実に面白い出来です。小柄は、時々アッと驚くような作品がありますが、中には刃紋で竜を表現したものや菊水、富士見西行などなど、技術的にとても考えられない様な作品があります。
今回の小柄も、今までに見たことのない作域で、鑑賞していて飽きません。朽ち込みが惜しいですが、化政文化の影響を感じる華やかな江戸の息遣いを感じます。
ここ数日、昼も夜もなく取り組んでいること、それは柄糸の染色です。
拵え(日本刀の外装)が、外国の刀剣類に比べて決定的に違うトコロを一つ挙げよ!と言われたならば、私は「柄巻き」を紹介したいと思います。
この柄巻きには様々な技法があって、通常一本の紐で組み上げられています。柄糸(柄に巻く紐:なぜか柄糸と呼ぶ)の種類は多岐に渡りますが、柄糸の色は外装の表情をガラッと変えてしまうほどの強い表現力を持っています。
今回は、限りなく黒に近い深い緑を目指して、何度も何度も染色を繰り返しています。深みのある色合いを表現するには、時間をかけて色を重ねていく意外に方法はないのです。しかも厄介なことに、工作中は目を離すことができません。
この柄糸は、昨日まで色を重ねて得られた結果です。苔色になっていますが、ここからが今日一日の仕事の始まりです。美しさは十分に出ていますが、目的の深緑は今の季節の強い日光から木々を守る日陰の深緑です。
染色の工程は、単調な作業ですがとても時間のかかる過酷な工作でもあるのです。染色を生業にしていらっしゃる工芸家の先生方には、頭の下がる思いでいっぱいになります。
草木で染め上げた柄糸は、厳密な意味で二度と同じ色を出すことは出来ません。もちろん、記録をつけて再現性を高めてはいますが、今この時の気温、気圧、湿度、火加減、水質、染料濃度、触媒、攪拌速度・・・どれを取っても条件が揃うことは稀ですし、何と言っても私の体調、感覚、気力、ひょっとしたら気持ちや思い、感情の一切も溶け込んで反応し、和色を結実しているのかもしれません。
私が色を重ねているのか、目的の色が私に重ねることを促しているのか、色と自我の境界線が不明瞭になったところで限界が来ました。実際の発色が確認できるまで、陰干しに入ります。おやすみなさい(笑)
太刀拵えの品格を左右する要素の一つは、何と言っても柄成(柄前の形状)にあると感じます。この柄成を決定付けるのは、刀身の茎の形に他なりませんが、刀身だけでは拵えの柄成を理想的なカタチに作り上げることはできません。さらに、刀身に合った刀装具がそろって、初めて太刀拵えの製作が開始できるのです。
製作途中の 縦篠刻みの切羽(等間隔に縁を削った状態の図、このあと残った箇所を半円状に加工していきます)
ほぼ完成の太刀切羽
この度のご依頼は、お預かりしている鞘と刀身の反りが合いません。解決策としてハバキの作り直しが必要なため、方々の白金師さんに相談するも、「そもそも刀身と拵えが別もの過ぎて、ハバキを作るのは絶対にムリ!」と断られ続け、無理を押して作って頂いたハバキも納得のいくものが出来上がらず、二ヶ所の工房にご迷惑をおかけしてしまいました。結局、自分で製作する羽目になり(すでに3つのハバキがあります)、何とか据わりの良い形状に仕上げました。
ハバキは何とかできたのですが、今度は先行して作ってしまった柄前が不恰好になり、やむなく出来たての柄前を分解し、下地から作り直します。
さらに、ハバキが変わったことで切羽のバランスが悪くなり、切羽すら打ち直しが必要になった為、一部の切羽を作り直しているのです。
なんとも非効率な作業経過ですが、納得の作品を納品してご依頼者様にご満足いただく事が、信頼に応える最善策と考えています。
ちなみに、今回の太刀は簡易型の軍刀拵を想定して作られた刀身と見えて、目釘穴の位置がかなりハバキ寄りに穿たれています。
そのため、フルセットの太刀切羽をお作りすると、強度上の問題があるため、やむなく菊刻みの切羽を省かざるを得ませんでした。
工作はまだまだ続きます・・・。