12月8日 今を生きる私たちの務め <農業は国家運営に他ならず> | 「農業は 人生を賭ける 価値がある」

12月8日 今を生きる私たちの務め <農業は国家運営に他ならず>

「農業は 人生を賭ける 価値がある」

 

 

12月8日

 

この日を意識してる人

 

ますます減っている昨今

 

 

皆さんは

 

なにがしかの思いを

 

持たれましたか?

 

 

 

 

 

 

 

博物館や記念館

 

慰霊施設を訪ねると

 

そこには歴史の瞬間が

 

閉じ込められています。

 

 

その日、その時、その場所に

 

立ち会った人の痕跡や 品々が

 

閉じ込められています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし、扉を開けて

 

訪ねてきた人にのみ

 

歴史の瞬間が

 

素顔を見せてくれます。

 

 

そう、意識してくれた人にのみ

 

歴史は素顔の一端を見せてくれます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今を生きる。

 

それはその通りですが

 

今は過去の成り行きに在り。

 

 

過去への意識が

 

幾ばくかでもあれば

 

今の見える風景も

 

自ずと変わってきますし

 

明日の未来も

 

色が異なるでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私たちは

 

海外生活で国というものを

 

意識し始めたのですが

 

さらに

 

農業をやり始めて

 

国から国家へと意識は広がり

 

しかも我が身のことと

 

考えるようになりました。

 

 

農業

 

それは国家運営そのものであり

 

限られた土地や資源で

 

どうやって生きていくかの事業に

 

他ならないわけですから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

でもよく考えれば

 

農業に限らず 生きてる者すべては

 

自分の国家運営をしているに

 

同じことだと思います。

 

 

その日を食いつなぎ

 

文化的生活と生存を確保し

 

できれば明日の家族を

 

形成し膨らませていきたい。

 

 

しかも、限られた資源において・・・。

 

 

同じですよね?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

12月8日

 

歴史の証人が博物館にありました。

 

 

「新高山登レ 一二○八」

 

「奇襲成功セリ ○三二二」

 

 

現物を見て

 

なおさら身が引き締まりました。

 

 

おそらく、その時の誰もが

 

なにがどうなるかを予測し得ず

 

とにかくやるしかない、の考えで

 

まとまったと思います。

 

 

生き残らんとする者は

 

そういう瞬間を経験するものですから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

悲劇の始まり、と片付けるのは

 

簡単至極でありますが

 

ならばあの道を辿らなかったとしたら

 

今の私たちは生まれていたであろうか?

 

どんな世の中になっていたであろうか?

 

 

歴史に「もし」は無意味でありますが

 

当時そうなってしまった経緯も含めて

 

今の私たちは

 

今を生きねばならぬと

 

思う次第です。

 

 

 

 

北海道 小柴ふあーむ

 

代表  和美
その夫  孝志