日本の経済官僚とマルクス経済学者の連携が功を奏した最大の事業は、“傾斜生産方式”だと言われています。これは、アメリカから石油を輸入して製鉄所を動かす燃料とし、生産された鋼材を使って炭鉱を堀り、その石炭を燃料として再び製鉄所を動かせば、やがて自前で製鉄を継続的に行えるという仕組みです。“傾斜生産”とは、斜めにした板の上を石が転がり落ちるように、次々に生産の連鎖がつながり、やがて日本の重工業が復活し、そうして消費財を生産する軽工業も動かせるようになるというイメージを表した言い方です。

 

これは、終戦直後に製鉄所とクズ鉄などの原料資材は残っていたが、石炭などの燃料が枯渇していたことから、その不足をアメリカからの緊急輸入で乗り越えようとした試みです。軽工業より重工業を先行して復興するべきだというのは、有沢広巳〈ありさわひろみ〉らマルクス経済学者が中心になって策定した戦災復興案である『日本再建の基本問題』と題する報告書(19463月)に既に示されていた考えですが、それを実行するためにまず必要となる燃料をアメリカからの緊急輸入で実現できるようダグラス・マッカーサー連合国司令官に談判してくれと吉田茂首相に進言したのも有沢広巳でした。

 

この案について、通産省官僚は現実的なものではないと見て冷やかであったのですが、有沢の熱意と吉田の英断がそれを押し切ったと思われます(通産省官僚は、「傾斜生産方式」は自分たちが考えた案だと主張していますが、少なくとも吉田に詰め寄ったのが有沢であることは間違いありません)。

 

こうして敗戦3年後の1948年には、日本の製鉄生産量は戦前の6割にまで回復しました。

 

これを政府官僚とマルクス経済学者たちは自画自賛し、官僚主導の計画生産体制、つまり国家社会主義体制、を戦後日本でも続けられると自信を深めたのです。そして、その自信は、現代に至るも政府官僚と経済学者はもち続けているのです。

 

しかし、その評価は現実を正確に見たものではない、と小塩丙九郎は考えています。

 

戦後数年間で、日本の製鉄量は戦前の6割にまで回復しましたが、戦前からの古い工場設備とアメリカに劣る生産技術しかもたない旧日本製鉄を解体してできた八幡製鉄㈱と富士製鉄㈱の製鉄量の伸びは緩やかなものでした。そこに野心的な案をもって登場したのが、戦前の民間製鉄企業を糾合する製鉄合同(1934年)のときに、それに加わることを拒否した数少ない企業の一つである川崎重工㈱(1939年に川崎造船㈱から社名変更)から1948年に独立した川崎製鉄㈱でした。

 

アメリカ占領軍命令により戦前からの大企業経営者が追放(パージ)された中で、比較的若くして社長に就いた西山弥太郎が、通産省官僚や日銀総裁(一万田尚登〈いちまたひさと〉)の反対を押し切り、千葉に新型の臨海銑鋼一貫製鉄所を建設したのです。この近代工場は、当時世界的に鋼材が不足する中で、内陸部にある先進国の工場が需要に応えられないでいる中、臨界という立地を活かして世界市場から鉄鉱石と石炭を大量に輸入することにより、世界市場で競争できる低価格の鋼材を大量生産することに成功して、日本の製鉄産業を一気に輸出産業へと育てたのです。

 

いわば、戦後初のベンチャーで、政府官僚や日銀官僚の市場管理の力をアメリカ占領軍の助力を得てはねのけて、そうして日本の戦後の高度成長への道を切り拓いたのです。この製鉄ベンチャーの強引な活躍がなかったら、その後の豊かな先進国日本はなかったであろう、と小塩丙九郎は考えています。つまり、傾斜生産方式は、日本が最悪の無生産状態から生産を開始するスターターとしての役割は果たしたのですが、経済成長を加速させるまでの力はもってはいなかったというように冷静に評価すべきなのです。

 

しかし、これで政府官僚は考えを発展させたのかというと、そうではななく、大蔵省官僚は金融業について、通産省官僚は製造業について、ますます市場管理の政策を推し進めていったのです。それを端的に表す言葉が“護送船団方式”です。大蔵省官僚が郵便貯金や簡易保険事業を通じて郵政省が集めた資金を大蔵省官僚が管理する施策銀行(日本開発銀行、日本輸出銀行、日本興業銀行など)に流し、長期低利の優遇融資を企業に貸し付ける制度によって実質的に企業経営を管理するという一方で、通産省官僚が業種ごとに自由競争を規制する業法を制定し、業界団体をつくらせ、それをカルテル組織として運営するという仕組みです。

 

そしてこのような官僚による管理を戦前同様に積極的に受け容れたのが、旧財閥系の大企業であったというわけです。この護送船団方式により、企業が短期の経営破たんや倒産を恐れることなく、長期的な事業計画をつくって成長でき、それが日本の高度成長の力となった、というのが今の政府官僚や経済学者の主張です。

 

しかしそれが事実に反するものであるという重大な証拠の一つは先に示した戦後の製鉄産業を成長させるきっかけをつくったのが、その政策に抵抗して近代臨海製鉄所をつくった川崎製鉄㈱の快挙です。ちなみに、政府の施策融資を潤沢に受けられない川崎製鉄は、アメリカが支配する世界銀行から多額の融資を得ています。

 

さらに戦後の高度成長の力となったトヨタ自動車㈱と本田技研工業㈱は、何れも通産省官僚の“指導”に逆らって自前の技術開発を行い(通産省官僚はトヨタにフォードから技術導入するよう迫りました)、あるいは自動車産業に強引に参入(本田技研)しています。通産省の自動車産業行政に反した勇敢なベンチャーがあったために、輸出産業としての日本の乗用車産業は発展したのです。

 

また、ソニーも創設間もなくアメリカからトランジスタ製造についての特許を購入してトランジスタラジオの製造を企画したのですが、通産省官僚がそれを認めず1年間店ざらしにしたため(当時外貨は通産省の許可なく入手できませんでした)、世界初のトランジスタラジオの生産には失敗したのですが、その後自らの先端技術を懸命に開発することにより、通算官僚と電気業界大手企業のベンチャー潰しの動きを克服して世界企業へと発展しています。

 

1960年代末には、現代の世界のトップCPUメーカーであるインテルに基礎技術を提供したビジコン社は、通産省官僚と大手電機メーカーの執拗な妨害にあって遂に倒産に至り、以降日本は演算用半導体市場へ参入する機会をなくしています(119日付ブログ『半導体ベンチャーは官僚と大手につぶされた』〈下記URL〉を参照ください)。

 

 http://ameblo.jp/koshioheikuroh/entry-12239633661.html

 

このように、 “傾斜生産方式”と“護送船団方式”は、政府官僚と経済学者の主張に反して、決して戦後日本経済の高度成長の基礎となったものではない、と小塩丙九郎は強く主張したいと思います。

 

次回は、政府官僚の国家社会主義体制がバブル崩壊を招き、そしてそこからの回復を不能としている様子を説明します。