今からおよそ50年前の1960年代、日本では電卓の製造競争が盛んでした。電卓のベンチャーであったビジコン社は、イタリアの企業(イメ社)が開発した超小型コアメモリ(円環状のフェライトに導線を通してつくった記録機器)を使って高性能な電卓(ビジコン161)を低価格でつくり、市場にいわば殴り込みをかけました(1966年)。ところが、それは市場を乱すものだとして、業界団体である事務機工業会とその背後にいる通産省が大声で、新型電卓の販売中止を申し入れてきました。

 

記者発表の日の早朝、工業会の会長がビジコン社を訪れ、「本日の発表を中止されたい」というのです。もちろん断って記者発表に臨もうとするのですが、今度は通産省の課長からの電話があり、「発表は絶対にやめろ」と言います。ビジコンはこの申し入れも断り製品を市場に出すのですが、今度は製品をつくるのに必要な部品(ダイオード)の供給を大手メーカー(三菱電機)から止められます(相田洋著『電子立国日本の自叙伝 完結』〈1992年〉より)。

 

 

電卓などの先端製品の開発は通産省が業界を指導して計画的に進めており、それには実力と信用がある大手メーカーが携わることとしているので、ベンチャーはその邪魔をするなということです。これが明治時代から現代に続く日本の産業政策と、それを体現する産業界の姿です。

 

 

その後、ビジコン社はより高性能の電卓の開発を進め、そのため前回紹介したCPU(演算用半導体;インテル4004)をインテル社に製造委託して、インテルとビジコン社との共同作業によってそれを完成させます。そしてビジコンは、それを輸入しようとして通産省に申請に出かけます。当時は、半導体の輸入は許可制となっていたからです。

 

そこでビジコン社は、通産省官僚からこんな言葉をかけられます。(「ここで半導体輸入を認められなければわが社は倒産してしまいますというビジコン社の訴えに対して」)ああ、そうですか、倒産なさったらいかがですか、通産省としましては中小企業の一つや二つ潰れてもかまいません。それで日本の半導体企業の育成に少しでも役立てば」)。

 

 

通算省官僚にとっては、ベンチャーとはただ規模が小さいだけの取るに足らない企業であり、それがどれほどの画期的先端製品を開発しようがまったく興味がない、大手メーカーを育てることだけが大事なのだ、ということなのです。

 

これが、日本ではベンチャーが育たない最大の理由です。

 

このような産業政策をとる通産省官僚と、業界秩序の維持を第一と考える大手メーカーが中心となった業界の運動の中で、やがてビジコンは倒産してしまいます。そして画期的なCPU開発に大きく貢献した世界的技術者である嶋正利は、日本で重用されることがなく、やがてインテルに参加するために渡米することとなりました。

 

 

こうして日本は、演算用半導体産業を発展させる機会を自らの手でつぶしてしまったのです。

 

 

ベンチャーを認めない、先端産業技術開発よりも社内の終身雇用・年功序列制の秩序維持を優先させる。そうして日本の半導体産業は一旦は高みに達する可能性を見ながら、ついに世界市場に通用するものには育てられませんでした。これが、日本の輸出産業崩壊をもたらした現場の様子です。

 

以上についてのさらに広範な説明は、以下のURLに掲示してあります。

 

http://www.koshiodatabank.com/17-1-1-burst_of_bubble.html#item-3