感性を磨くこと | 佐渡の洋食屋店長のブログ

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感性ってなんだろう。
感性って自分の感じたことをストレートに表現することなんじゃないかなと。
だから、相手に合わせてばかりいたりすると、感性がどんどん閉じてしまう。

最近の教育では、皆と合わせるというか何だか同じ方向に進ませているようです。
もちろんそれも大事。人と合わせるということは社会で大事な能力のひとつ。

例えばこういうこと。
真白な画用紙にお絵かきする。
「どんな絵でもいいから描いていいよ。」
「この写真と同じように描いて。」
前者の方が感性が磨かれるように思う。
何もないところから何かを生み出す創造力。感性が豊かでないとできないこと。

人は子供の頃からいろんな選択を迫られる。
例えば、飲食店でメニューを広げ、「○○くん、何がいい?」と選択をせまられる。
親が○○くんはこれにしなさいとか、選択をする場面を奪ってしまってはいけない。
それと、子供ごころに親が喜ぶ選択をするというくせがついていると、感性がどんどん閉じていっているような気がする。
受験を例にとってもそう。
自分がなりたいものになるのではなく、こっちよりこっちの大学に行った方が親が喜ぶ。とか。

相手が喜ぶ選択をする子。確かにいい子です。
でもそれって何か我慢を強いられているようでかわいそう。
いつかパンクしてしまうのではないか?と心配です。


感性豊かに育てるということは、無我と自我のバランスをとりつつ、自由な選択をしたり、思ったこと、感じたことをストレートに表現する機会を与えることなのかなぁと。



ちなみに、wikipwdiaによると感性とはいかのように定義されてます。

概説
感性とは、美や善などの評価判断に関する印象の内包的な意味を知覚する能力と言える。これは非言語的、無意識的、直感的なものであり、例えば何らかの音楽に違和感を覚えるように人間に作用することもある。感性についての研究は古くは美学や認識論、また認知心理学や芸術学などで行われてきたものであり、歴史的には19世紀に心理学者フェヒナーが黄金比についての実験美学研究にその起源を求めることもできる。

定義
感性の定義は哲学的、心理学的にさまざまに行われている。認識論では悟性の対極にあって受動的な知覚を担うものであり、また、人間的な理性よりも下位にあるために、より動物的なものだと論じられることもある。近代ドイツの哲学者カントが『純粋理性批判』にて「悟性的な認識の基盤を構成する感覚的直感表象を受容する能力」と言ったが、この場合の感性はより感覚に近い位置づけである。
ただし、心理学では感性と感覚は必ずしも同一としない。離人症の患者がどんな絵画を鑑賞しても色や形を感覚として知覚しているものの、それらから何の感動や感情も持つことはなかったという症例があり、このことから情報の感覚的な処理と感性的な処理は単純に同じではないことが分かる。従って心理学者の三浦佳世は感性を「事物に対する感受性、とりわけ、対象の内包する多義的であいまいな情報に対する直感的な能力」と定義した。そしてこれに「高速で行われるところの帰属要因ならびに処理過程に関する情報の選択あるいは統合に対する無自覚性を特徴とする、処理に対する能力で、主に評価の形で表現されるもの」とも定義した。後に創造的な側面を踏まえて「無自覚的・直感的・情報統合的にくだす印象評価判断能力」という定義も加えられた。


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