4月22日(土)は日本城郭史学会で総会・大会が開催されました。例年は4月に開催されていましたが、新型コロナの影響で2020年は翌年に延期、2021年は前年度の内容で規模を縮小して大会のみ開催、2022年は中止でした。2023年はこれまでと同じように総会・大会が開催できました。

 

駿府城天守台

 

 今回の会場は板橋区のグリーンカレッジホールです。城郭史学会のイベントはこちらで開催されることが多いですが、最近は城見学が中心だったのでカレッジホールに行くことは減りました。カレッジホールの建物は変わっていませんでしたが、周辺のこれまで利用した店が閉店したりで街並みが少し変わっていました。

 

グリーンカレッジホール

 

西ヶ谷代表の総会開催の挨拶

 

 この日の予定は午前は史学会会員が集まり総会でした。前年度の活動の確認、今年度の予定を発表して総会は終わりました。2019年以来の4年ぶりの総会でした。
 総会が終わったら午後からは大会です。こちらは会員以外の一般の人も参加できます。2021年の大会は人数制限しましたが今回は制限がなかったので、多くの人が参加しての大会でした。
 今回のテーマは「注目される各地の発掘調査から」です。4人の方を講師に招いて四城をテーマにしてお話しされます。最初は大山崎町歴史資料館館長の福島克彦さんが京都新城について発表されます。

 

京都新城についての発表

 

 豊臣秀吉は京都に聚楽第、お土居、指月伏見城、木幡山伏見城、京都新城の順番で築城しました。慶長2年(1597)京都新城が築城されて、これが秀吉が最後に築城した城でした。

 秀吉死後は京都新城は高台院屋敷になり、高台院死後は仙洞御所となりました。現在でも仙洞御所なので発掘調査を行うのは難しいが、過去に御所内で行われた調査では石垣、金箔瓦が発見されています。当時の京都新城の築城の様子は言経卿記に記されいます。

 

大山崎町歴史資料館の福島克彦氏

 

 最後に京都新城には天守はあったかのお話をされました。当時の文献には天守の記述はありませんでした。豊臣秀吉が築城した城にはこれまで必ず天守があったので、京都新城にも天守があった可能性はあります。京都新城の立地からだと天守みたいな高層建築物を立てると禁裏を見渡せることになります。

 

 次は岡山県古代吉備文化財センターの米田 克彦さんが岡山県南山城跡の発掘調査の発表をされます。

 

南山城の発表


 南山城は標高70Mの丘陵の東端に築城され、110M四方の狭い城域ながら南側に十本以上の畝状竪堀があり、西側は三重の堀切で防御されています。城内には6棟の掘立柱建物があったことが確認されています。
 文献に出てこない城なので詳細な歴史は不明です。天正年間は高梁川西側は毛利家の所領だったので高梁川東側の宇喜多家に備えて毛利家が天正年間に築城した城だと推定されます。城として使用された期間は短かったと思われます。

 

岡山県古代吉備文化財センター 米田 克彦 氏

 

 南山城の立地は高梁川と小田川の合流点のすぐ南側にありました。当時はすぐ北側に山陽道が通り、交通の要衝でありました。水害対策で二川の合流点の付替えは昭和の最初から計画されましたが、なかなか実行されずに平成になり工事が始まりました。河川工事で地形が削られる場所に南山城があり、調査が行われるつれて話題になった城でした。残念ながら今では地形ごと削られているので南山城は完全に消滅しました。

 これで前半の発表が終わり、休憩を挟んで後半の発表が始まりました。

次は日本考古学協会会員の谷 旬さんが佐竹氏の居城常陸太田城跡の発掘調査の発表をされます。

 

常陸太田城の発表

 太田城中心部にあったJT跡地17000㎡が調査の対象でした。全部の調査は無理なので6ヶ月で3700㎡を調査しました。
 戦国大名佐竹氏の居城というネームボリュームもあり、地元の関心も高くて、小学校や市民見学会が何回か開催されました。
 旧石器時代の尖頭器から昭和30年代の飲料の瓶まで発見されました。

 

日本考古学協会会員 谷 旬 氏

 

 今回の発掘調査の区画では4本の堀が確認されました。便宜上それぞれの堀を1号堀から4号堀と呼んでいます。北側にある1号堀からはピンクのかわらけが発見されました。西側の2号堀は薬研堀で堀の角度は内側は45度、外側は30度でした。南側の4号堀は水が湧いていました。ここからは古代の遺構が発見されました。

 最後に静岡市歴史文化課駿府城エリア活性化係長の松下 高之さんからの「駿府城跡天守台の発掘調査成果から」のお話です。

 

駿府城天守台の発表


 駿府城跡は弥生時代中期から集落があり、古代は国府があった可能性もあります。
14世紀後半から今川氏の館があり、今川氏、武田氏の変遷後に徳川家康の居城となりました。
 発掘調査の結果、今川期の遺構も出てきました。薬研堀、池状遺構、明製の焼き物が確認されました。

 二種類の天守台が出てきて、一つは天正期の天守台だと想定されます。こちらの天守台は天正15年以降に徳川家康の時に作られたと思われます。大天守と小天守台が確認されて連結式天守でした。間詰石、金箔瓦が発見されました。
 慶長期の天守台は関ヶ原の合戦後の慶長12年(1607)頃から築城されました。石垣の途中で壊されているので石垣の背後がどうなっているか分かりやすく、栗石がはっきり確認出来ました。天正期の石垣を壊して作り、算木積みを使用しています。
 一部形状の違う石垣がありますが江戸時代中期の宝永年間に積み直ししたと思われます。
 

静岡市歴史文化課 松下 高之 氏

 

 静岡市は当初2015年から天守復元を視野に入れた天守台復元を計画しました。
それに伴って発掘調査を行い、その結果として天正期と慶長期の天守台跡が出てきました。

 北関東、東海、近畿、中国地方と1城ずつの発表されました。各1時間ずつの発表で発表者からみて少し短い時間での発表だったかもしれませんが、皆さん上手くまとめてくれました。どの城も新聞記事や話題になっていて聞いた事がありましたが、今回の大会でさらに詳しいお話が聞けました。