11月27日(土)は千葉県佐倉市での日本城郭史学会主催の見学会があり、参加しました。6月の見学会以来の五ヶ月ぶりのイベントでした。今回の見学会は史学会委員の大橋健一さんが案内してくれました。

 

臼井城主郭から見る臼井田宿内内砦

 

 当日は京成臼井駅に集合して、最初の目的地である上杉謙信の一夜城公園を目指します。市街地を数分歩くと一夜城公園に着きました。公園にはひときわ目立つ一夜城の石碑があります。

 

一夜城公園石碑

 

 一夜城公園の周辺は住宅地で、発掘調査では中世城郭の遺構が発見されましたが、現在では地表面には土塁や空堀の遺構はありません。石碑がなければ普通の公園です。石碑には永禄9年(1566)の上杉謙信の臼井城攻めの事が書かれています。石碑の文章には1ヶ所だけ間違いがありました。臼井城主原胤定と書かれた箇所が間違いで正しくは「胤貞」になります。

 

一夜城公園入口

 

 一夜城公園の次は臼井城を目指します。臼井城は内郭部、外郭部、さらに外側に広がる惣構からなる城です。臼井城がある台地全体を惣構とすると南北1キロ以上になる広大な城です。最初に惣構大手門跡を目指します。

 

臼井城惣構大手門跡

 

 惣構大手門跡は発掘調査で堀や土塁が発見されていますが、現在では遺構はのこっていません。名称版もないので分かりにくいです。

 

臼井城惣構大手門跡2

 

惣構跡に入る

 

 惣構大手門跡から北に向かい、臼井城の主要部分を目指します。臼井城は台地になるので惣構に入るときに少し登ります。今でも台地の地形はよく残っています。

 

妙見社(現在 星神社)

 

 臼井城の三の丸には今でも星神社があります。星神社は以前は臼井妙見社でした。妙見信仰は北極星信仰であります。北極星=星という経緯で今では星神社になりました。

 

太田図書の墓

 

 臼井城では大きな戦いが2回ありました。1回目は文明11年(1479)の享徳の大乱に伴う、千葉氏一族の戦いでした。武蔵千葉氏の自胤と太田道灌の弟(甥ともいわれる)図書助資忠が臼井城を攻めました。臼井城には千葉孝胤、臼井持胤、臼井俊胤が入り守っていました。臼井城は落城するも太田図書他53人が討ち死にしたと言われています。

 

臼井城二の郭西側空堀

 

臼井城二の郭

 

 もう1回の戦いは永禄9年(1566)の上杉謙信の関東侵攻に伴う臼井城攻めです。

後世の軍記物では臼井城では白井入道浄三が軍師となり、見事な采配で上杉謙信を破ったと記されています。当時の資料には白井入道浄三の事は書かれていません。白井入道浄三は軍記物の創作か、話を盛った可能性があります。攻める上杉方が損害を出して、撤退したのは当時の資料からでも間違いないです。軍神上杉謙信が生涯で二度敗北してます。その一つがここ臼井城の戦いでした。

 

主郭西側櫓台

 

主郭南側土塁跡

 

 臼井城は公園化されていて主郭、二の郭がよく残ります。曲輪間の幅の広い空堀もよく残っています。土塁、櫓台も各所に残っています。主郭北側からは印旛沼や対岸に師戸城が見えます。当時の印旛沼は今より大きくて臼井城のすぐ北側まで沼でした。                                                                                                          

臼井城主郭

 

 臼井城の次は臼井田宿内砦に向かいます。臼井城は惣構を守る五つの砦がありました。今では都市化されて臼井田宿内砦のみが残っています。

 

臼井田宿内内砦の主郭相当の曲輪

 

 臼井田宿内砦は近年公園化されて整備されています。主郭曲輪、腰曲輪、土塁が残っています。砦といってもどの曲輪は意外と大きいです。

 

臼井田宿内砦東側腰曲輪

 

 臼井田宿内砦の見学が終わり、ここで現地解散なりました。この日は天気はよかったですが夕方に近づくと寒くなってきました。

 

臼井田宿内砦で解散

 

 見学終了後は京成臼井駅に戻りました。ここ臼井では毎年8月には臼井ふるさとにぎわい祭りが開催されます。

臼井ゆかりの人物の巨人軍の長嶋茂雄名誉監督と江戸時代の伝説の最強力士「雷電」のねぶたが祭りで披露されます。駅前の商業施設にはねぶたが展示されています。有志何名かでねぶたを見て見学会はこれで終了です。

 

雷電と長嶋茂雄のねぶた