6月26日(土)は栃木県佐野市での日本城郭史学会主催の見学会があり参加しました。4月の大会は何とか開催出来ましたが、5月の見学会は中止となり、二ヶ月ぶりのイベントでした。今回の見学会は史学会委員の笹崎明さんが案内してくれました。

 

植野陣屋移築門

 

 当日は東武鉄道佐野市駅に集合です。東武鉄道も都内は本数が多いけど、佐野線は1時間に一本しか走っていないローカル線でした。佐野市駅に着いたら駅舎内は見学会の参加者で賑やかでした。集合時間になり、この日の予定を説明してから、最初の目的地である東光寺を目指します。

 

佐野市駅前

 

 佐野市駅から10分ほど歩いたら、東光寺に着きました。ここ東光寺には植野陣屋で使用された二門が移築されて残っています。一門は東光寺の中門で使用されています。すぐ隣に説明板があるので移築門である事が分かります。もう一門は少し離れた所にあり、案内が一切ないので移築門である事を見逃しそうです。

 

 

植野陣屋移築門

 

 東光寺は敷地が広く、大規模な寺院でした。歴史も古く、延暦年間(782~806年)伝教大師最澄を開基として創建されたと言われています。その後は衰退するも、鎌倉時代に康元元年(1256)に天台宗から臨済宗に改宗して再興されました。植野陣屋の堀田氏によって領内の菩提寺として保護されました。そういう経緯もあって陣屋の門が移築されました。

 

東光寺前

 

 東光寺を出て少し歩いたら植野地区公民館に着きました。昭和を代表する歴史作家司馬遼太郎は昭和20年佐野に滞在していました。司馬が所属する戦車連隊が本土決戦に備えて佐野に駐屯したので、昭和20年8月の終戦までの短い期間でしたが佐野で過ごしていました。ここで司馬は今後の人生の方向性を左右するような強烈な体験をすることになりました。

ある日、作戦について説明するために大本営から将校が訪れて、戦車連隊の士官を集めます。説明を受けたのちに司馬はこの将校に質問しました。「戦車連隊が上陸した米軍相手に進撃するときに途中で避難してくる住民と数遇して、戦車が立ち往生するのでこの場合はどうしたらいいか」という質問です。それに対して大本営の将校は「(住民を戦車で)ひき殺してゆく」と答えました。

 司馬は国民をひき殺せといった将校の話を聞いて、民衆を守るのが目的ではなく、民衆の命よりも軍の任務のほうが大事なのかと大きなショックを受けました。「こんな愚かな戦争を日本人はどうしてやってしまったのか」との問いが司馬の大きな疑問となっていき、その謎を解くために多数の小説を書きました。ここ佐野での体験が小説家司馬遼太郎の原点とも言えます。

 この司馬のエピソードは有名ですが、佐野での話だった事を知る人は意外と少ないかと思います。

 

 

司馬遼太郎石碑

 

 公民館を出て、南に1キロちょっと歩いたら、植野陣屋跡に着きました。ここ植野陣屋は江戸時代に堀田氏の陣屋がありました。堀田氏は佐倉の堀田氏の庶流で江戸時代初期に佐野植野に1万石に入封していましたが、その後転封となりました。江戸時代後期の文政9年(1826)に再び佐野に戻ってきました。堀田氏は城主格に上がった事もあり植野陣屋は佐野城と呼ばれるようになりました。堀田氏は植野に陣屋をおいて統治しましたが、佐野周辺の所領は佐野南部の植野、赤坂、田島の三村6000石ほどでした。現在の佐野市役所がある中心地は堀田氏の所領ではありませんでした。

 

植野陣屋跡

 

 植野陣屋跡には説明板や石碑があって、ここが陣屋跡だと分かりやすくなっています。陣屋跡は開発されて住宅地になっていて、遺構は土塁の一部と庭園跡しか残っていません。

 

 

植野陣屋平面図

 

 植野陣屋の庭園には御泉水(おせんすい)と呼ばれた池がありました。今でも池が残っていて整備されています。御を付けて読むとあまり綺麗そうではない名前になってしまいますが、庭園の池なので本来は綺麗な池でしょう。当時の池は今より一回り大きかったみたいです。

 

御泉水跡

 

 陣屋南側には土塁の一部が残っています。周辺より高くなっているので分かりやすいです。陣屋時代に北東にあった稲荷が土塁上に移されて堀田稲荷になっています。残っている土塁はここだけですが意外と高い土塁でした。

 

植野陣屋土塁跡

 

植野陣屋土塁跡から

 

 植野陣屋の次は佐野城を目指します。佐野城まで北に3キロはどあり、今回の見学会で一番歩きました。途中から北に向かって一直線の道なので分かりやすかったですが、なかなか佐野城には着きませんでした。こちらの佐野城は佐野氏が築城した城で、佐野駅のすぐ北側にあり佐野市の中心部に位置します。別名で春日岡城、春日山城とも言われています。佐野城といったらこちらの佐野城を連想する人が多いと思います。

 

万葉の里城山記念館前

 

 こちらの佐野城は比高20Mの独立丘陵に築城されています。慶長7年(1602)に佐野信吉が唐沢山城からここ春日岡山に築城を開始して居城を移しました。佐野氏は慶長19年(1614)に改易になったので、佐野城はこの時に廃城となります。城の歴史が10年ちょっととあまりにも短かったためか、城の様子を描いた絵図は残されていません。江戸時代初期の史料である下野一国に佐野城の事が記されています。

 

本丸と二ノ丸の堀切

 

 佐野城はこれまで17次にわたる発掘調査が行われて来ました。石垣、石畳の通路、礎石建物跡や石組の溝が発見されました。これらの遺構は一部を除いて保存のために埋められています。

 

春日岡城本丸虎口周辺

 

 佐野氏は藤原秀郷を祖とする下野の藤姓足利氏の一族で、治承寿永の乱で藤姓足利氏が没落した後に佐野氏は台頭しました。鎌倉、南北朝、室町、戦国時代と本貫の地である佐野周辺の所領を守りながら佐野氏は続いてきました。豊臣秀吉側近の富田一白の子信吉を養子にもらって存続を図るも、江戸時代初期に改易となりました。 兄である伊予宇和島の大名である富田信高の改易に連座して改易となりました。富田信高も大久保長安事件の連座と言われています。佐野氏は連座の連座で改易なのでかなり無理があるように思えます。北関東に豊臣系の大名がいたのを幕府が気にしての改易ではなかったのかと想像します。

 

本丸南側虎口跡

 

 佐野城の独立丘陵の地形はよく残っていて、今でも城山と呼ばれています。城山公園として整備されていますが、整備され過ぎているのが少し残念です。それでも曲輪間の堀切は今でもよく残っています。各曲輪も整備され過ぎていて、城跡というより公園になっています。

 

 

本丸、北出丸の堀切

 

北出丸跡

 

本丸と二ノ丸の堀切

 

三の丸南側

 

 今回の見学会は二つの佐野城ですが、江戸時代後期堀田氏の佐野城は城と言うより陣屋の印象が強いです。佐野市の中心からも外れた場所にあります。江戸時代初期で廃城になった佐野氏の春日岡城の方が、今でも佐野市の中心にあり、佐野城の印象が強いです。

上記の事から堀田氏の佐野城を植野陣屋、佐野氏の春日岡城を佐野城と記しました。

 

 

 佐野駅北口に集まってこれで今回の見学会は終了です。梅雨の時期に開催で天気は心配でしたが、大丈夫でした。7月、8月は史学会の予定はありません。次回は9月に埼玉県の腰越城の見学会を予定しています。